大乗仏教について――中国の草木成仏論と日本での発展

日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)
PP.170-171

中国における草木成仏の論拠は、衆生と草木の相互関連性、あるいは「空」の絶対の立場からみた両者の同質性に求められている。(中略)
あるいは、仏の絶対の立場からみると、全世界が平等に真理そのものであって、そこでは衆生と草木との区別もなくなるという観点から草木成仏がいわれる。

このような中国での草木成仏論は、日本ではまた発展した別の形でみられるようになる。

衆生との関係や空の絶対の立場を離れて、一本一本の草や木がそれぞれ自体で完結し成仏しているというものである。ここでは仏の絶対の立場からみるという前提がきわめて弱くなり、平等の真理性といういわば抽象的な次元ではなく、個別的具体的なこの現象世界のいちいちの事物のあり方がそのまま悟りを実現しているという面が強くなる。

かくして、草木成仏論、ひいては本覚思想は、堕落の仏教に繋がる道になった面があった。が、鎌倉仏教以降、良かれ悪しかれ、本覚思想の影響は免れることはないが、本覚思想を中心として、思想的な発展があったと著者は紹介する。今後はその点をまとめる。

大乗仏教について――本覚思想

日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)
P.158

すなわち、衆生のありのままの現実がそのまま悟りの現れであり、それとは別に求めるべき悟りはない、というのである。それゆえ、もはや悟りを求めて修行する必要はなく、修業によって悟りを求めようとする立場は始覚門とよばれて、低次元の考え方とされる。さらに、それは衆生の次元だけの問題ではなく、草木国土すべてが悟りを開いているとされる。これは「草木国土悉皆成仏」といわれて、中世の謡曲などで愛好される。

この本覚思想は、『末法灯明記』で、末法では教えがあっても実践が成り立ち得ないから、戒そのものがなく、名前だけの比丘こそ世の宝として尊重しなければならない、とした論旨と通ずるものがある、と著者は言う。なぜといって、本覚思想に拠れば、存在そのものがすでに悟りを開いているのだから、凡夫は凡夫のままでよいということになるからだ。
今後は中国の草木成仏論と日本での発展をまとめる。

日記

暇である。暇だとつい「深き退屈は、現存在の深淵を沈黙せる霧のようにさまよい廻り、すべての事物やすべての人間そしてそれらと共にある、人それ自身をも、一緒に一種不思議な無関心の中に陥れるのである。この退屈が全体としての存在事物を顕示するのである」というハイデガーの言葉をWikipediaから孫引きしたくなる。が、意味を分かって引用しているのではなく、やはり退屈だからわざわざアンカーまでつけて出典明記しているのだけれども、まさにこれこそが「全体としての存在事物を顕示する」ことなのかもしれない。
帰宅後、1週間ぶりのランニング。

大乗仏教について――密教2(顕教との峻別)

日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)
PP.109-110

密教の絶対者大日如来は永遠の宇宙的実体であり、それまでの仏教の仏が究極的には空に帰するのと根本的に異なっている。瞑想のなかで自我がこの宇宙的な大日如来と一体化することにより、自我も絶対性を獲得できるというのである。