大乗仏教について――本覚思想

日本仏教史―思想史としてのアプローチ (新潮文庫)
P.158

すなわち、衆生のありのままの現実がそのまま悟りの現れであり、それとは別に求めるべき悟りはない、というのである。それゆえ、もはや悟りを求めて修行する必要はなく、修業によって悟りを求めようとする立場は始覚門とよばれて、低次元の考え方とされる。さらに、それは衆生の次元だけの問題ではなく、草木国土すべてが悟りを開いているとされる。これは「草木国土悉皆成仏」といわれて、中世の謡曲などで愛好される。

この本覚思想は、『末法灯明記』で、末法では教えがあっても実践が成り立ち得ないから、戒そのものがなく、名前だけの比丘こそ世の宝として尊重しなければならない、とした論旨と通ずるものがある、と著者は言う。なぜといって、本覚思想に拠れば、存在そのものがすでに悟りを開いているのだから、凡夫は凡夫のままでよいということになるからだ。
今後は中国の草木成仏論と日本での発展をまとめる。