カズオ・イシグロ『日の名残り』

日の名残り (ハヤカワepi文庫)
小説が文章によって書かれるということを、最大限に利用した作品である、というのは誰が読んでもあきらかで、何を言ったことにもならない。一人称ゆえに錯誤が生じることや見過ごされること、ミス・リーディングが発生することなどは、むろん小説上の重要な仕掛けだ。しかしそれよりも、三人称の視点で読む私達に、問われていることはないか、と思ったのだった。
何かと言えば、話者にとっての真実とは、第三者からみて滑稽で愚昧であったとしても、それは真実に違いないということであり、いやその真実さえあれば良いということではなく、その真実しかありえないのではないかという近代哲学に近い話である。
これは描き方によれば相当にシリアスになるだろうし、あるいは本作の端々にみられる滑稽さにもなるだろう。『日の名残り』が掛け値なしに傑作であるゆえんは、一人称で書かれているにもかかわらず、読者の頭では三人称として物語が進行しうるからだ。厳粛さが描かれれば、それはまたユーモアとして、読者が話を補完できるように、意図的にリードしている。
何が真実かは分からないが、「真実」らしきものはぼんやりとみえてくる。
たとえばダーリントン卿に対する評価の「真実」とは、スティーブンスが抱く真実とはどうやら違う。読者はレジナルドの指摘などから想像できる。しかしまた、その情報ですら「レジナルドの」真実でしかない。後世の評価や新聞記事もまた同じようにして「それらの」真実でしかない。が、真実の集合により、なんとなく「真実」を読者は了解しつつ、かつそれもまた、「読者の」真実なのだと意識させられる。
本作のラストは夕方である。自分の無能をさとって泣くスティーブンス。センチメンタルな情景も手伝う。しかし彼の結論は、やはり的外れで滑稽なことに、読者は悲しく笑うのだ。

大いなる沈黙へ ─グランド・シャルトルーズ修道院

『大いなる沈黙へ』より、フェルメール

「映像」と「音」は、映画にとって常にラディカルな問題である。歴史的にはもちろん、あるいはゴダールの試みだってそうだった。ただ、それが表現手法として前衛的(radical)であったとしても、根源的(radical)であるかは議論が分かれるかもしれない。
本作はそういう意味ではまさしく根源的に「映像」と「音」が問い直されている作品である。と、小難しく言うほどのことではなく、単純に、グランド・シャルトルーズ修道院側の要請から必然的にそうなっただけなのかもしれない。なにせ、作品の成り立ちからしてこのようである。

1984年に撮影を申請、16年後に扉が開かれる。差し出された条件は音楽なし、ナレーションなし、照明なし
中に入れるのは監督一人のみ。

何を撮っても絵になってしまう。たとえば写真のシーンでは、フェルメールの名画を思い起こさずにはいられない。祈る修道士、降り積もる雪、ロウソクの炎……。きわめて美しい詩的な映像に、息をつく暇がない。
そこに、音が入る。修道士たちの生活の音。咳、衣擦れ、薪割り、床の軋み……。何が起こるか? 詩的な映像と日常の往復である。観客は常に天上の穢れない美しさに魅せられながら、人間の日常に引き戻り、その反復のうちに神と祈りと人間について思い巡らすことになる。ついでに生きる目的まで。
様々なところで、「静寂」と表現されている。たしかに、他の映画よりはずっと静かだし、なにせタイトルが「沈黙へ」となっているくらいだから、たぶん間違ってはいない。ただ、それが単純に映画の中の音だけを指しているならば、言い足りないような気がする。
時折登場する、修道士たちの顔のアップは、各々違うにしても、決して非人間的な、超越的な表情ではない。何かを背負っているし、何かにとらわれている。そんな彼らの祈りの生活が「静寂」なのは、彼らが、これまで/これからの人生との折り合いを、彼ら自身の中で神と対峙しようとし、処理しているからだ。まるで苦々しい薬を飲むように、半ば観念しながら、そして後悔しながら、あるいは救いを求めて。「静寂」は彼らの音なのだ。彼らの顔の映像は、そう物語っていないか。

中村善策「明科の里」

北海道立近代美術館で開催中の「ミュシャ展」は、思いの外面白かった。目の肥えた御仁たちからは様々に注文があがるのだろうし、それはそれで良い。だが、美術館が、近美コレクションとして「国貞が描く、江戸美人勢揃い」を同時開催しており、ミュシャを観た後にアール・ヌーヴォージャポニスムを確認するという企画の意図には、文句なく頭がさがるだろう。
が、個人的に一番良かったのは、もうひとつの近美コレクションの、「春季名品選」と題された企画だった。中でも中村善策の「明科の里」は素晴らしかった。中村の明るい人間味が画面全体に溢れ、ちょっと歪んだ木や道や坂が、実に楽しげに並んでいる。
自然といえば「荒々しい」とか「厳しい」といった形容詞をつけたがり、また多くの画家はそうしたものを描いてきたけれども、中村善策は「人間がいる自然」を描いた。画面に人間が登場するということではない。人間とともに生活する自然が描かれているということだ。ただ厳しいだけの自然は、人間には耐えられない。裏を返せば、たぶん、誰よりも自然の厳しさが、身に沁みていたのではないか、と思わせる。
ミュシャや浮世絵の、豊かな構図や装飾と、中村善策の絵。絵の技術については知らない。が、いずれも人間が生活する上で、削ぎ落とすことができなくもないものを、大切にいとおしんでいるように思える。それは、いっけん無駄なものだが、無駄なものとは言い換えると、人間の優しさかもしれないし、愚かさかもしれない。

日記

仕事。今日はさっさと終わらせて帰宅し、ランニング。気分は比較的ざわついている。こういうときは、たいがい怒りっぽかったり、ミスをしがちだったりするので良くない。

  • 距離:10.1km
  • 時間:51'28
  • ペース:5'05/KM

ねじの回転 / デイジー・ミラー

ねじの回転デイジー・ミラー (岩波文庫)
実は初めて読む。私は、ヘンリー・ジェイムスは『鳩の翼』で良いという気がする。つまり、『鳩の翼』で示された以上のものが、ここにあるのかといえば、ないのではないか。というのは、なんだか理不尽な評価だが(なにせ、むろん、『デイジー・ミラー』や『ねじの回転』の方が、『鳩の翼』よりも前に発表されているわけで、『鳩の翼』が技術的にも懐の深さにおいても優るのは当然だからだ)、ヘンリー・ジェイムズの代表作がこの2つの中編だというのは、なにか違うと思う。

日記

風が強いので寒く感じる。仕事。比較的暇。急遽代わりに仕事を引き受けることもあるが、自分の仕事量を逼迫するようなものではない。
帰宅後ランニング。路面がだいぶよくなり、雪がほとんどなくなったことに気づく。スノーターサーを洗って干す。

  • 距離:10km
  • 時間:53'14
  • ペース:5'19/KM