カズオ・イシグロ『日の名残り』

日の名残り (ハヤカワepi文庫)
小説が文章によって書かれるということを、最大限に利用した作品である、というのは誰が読んでもあきらかで、何を言ったことにもならない。一人称ゆえに錯誤が生じることや見過ごされること、ミス・リーディングが発生することなどは、むろん小説上の重要な仕掛けだ。しかしそれよりも、三人称の視点で読む私達に、問われていることはないか、と思ったのだった。
何かと言えば、話者にとっての真実とは、第三者からみて滑稽で愚昧であったとしても、それは真実に違いないということであり、いやその真実さえあれば良いということではなく、その真実しかありえないのではないかという近代哲学に近い話である。
これは描き方によれば相当にシリアスになるだろうし、あるいは本作の端々にみられる滑稽さにもなるだろう。『日の名残り』が掛け値なしに傑作であるゆえんは、一人称で書かれているにもかかわらず、読者の頭では三人称として物語が進行しうるからだ。厳粛さが描かれれば、それはまたユーモアとして、読者が話を補完できるように、意図的にリードしている。
何が真実かは分からないが、「真実」らしきものはぼんやりとみえてくる。
たとえばダーリントン卿に対する評価の「真実」とは、スティーブンスが抱く真実とはどうやら違う。読者はレジナルドの指摘などから想像できる。しかしまた、その情報ですら「レジナルドの」真実でしかない。後世の評価や新聞記事もまた同じようにして「それらの」真実でしかない。が、真実の集合により、なんとなく「真実」を読者は了解しつつ、かつそれもまた、「読者の」真実なのだと意識させられる。
本作のラストは夕方である。自分の無能をさとって泣くスティーブンス。センチメンタルな情景も手伝う。しかし彼の結論は、やはり的外れで滑稽なことに、読者は悲しく笑うのだ。