大いなる沈黙へ ─グランド・シャルトルーズ修道院

『大いなる沈黙へ』より、フェルメール

「映像」と「音」は、映画にとって常にラディカルな問題である。歴史的にはもちろん、あるいはゴダールの試みだってそうだった。ただ、それが表現手法として前衛的(radical)であったとしても、根源的(radical)であるかは議論が分かれるかもしれない。
本作はそういう意味ではまさしく根源的に「映像」と「音」が問い直されている作品である。と、小難しく言うほどのことではなく、単純に、グランド・シャルトルーズ修道院側の要請から必然的にそうなっただけなのかもしれない。なにせ、作品の成り立ちからしてこのようである。

1984年に撮影を申請、16年後に扉が開かれる。差し出された条件は音楽なし、ナレーションなし、照明なし
中に入れるのは監督一人のみ。

何を撮っても絵になってしまう。たとえば写真のシーンでは、フェルメールの名画を思い起こさずにはいられない。祈る修道士、降り積もる雪、ロウソクの炎……。きわめて美しい詩的な映像に、息をつく暇がない。
そこに、音が入る。修道士たちの生活の音。咳、衣擦れ、薪割り、床の軋み……。何が起こるか? 詩的な映像と日常の往復である。観客は常に天上の穢れない美しさに魅せられながら、人間の日常に引き戻り、その反復のうちに神と祈りと人間について思い巡らすことになる。ついでに生きる目的まで。
様々なところで、「静寂」と表現されている。たしかに、他の映画よりはずっと静かだし、なにせタイトルが「沈黙へ」となっているくらいだから、たぶん間違ってはいない。ただ、それが単純に映画の中の音だけを指しているならば、言い足りないような気がする。
時折登場する、修道士たちの顔のアップは、各々違うにしても、決して非人間的な、超越的な表情ではない。何かを背負っているし、何かにとらわれている。そんな彼らの祈りの生活が「静寂」なのは、彼らが、これまで/これからの人生との折り合いを、彼ら自身の中で神と対峙しようとし、処理しているからだ。まるで苦々しい薬を飲むように、半ば観念しながら、そして後悔しながら、あるいは救いを求めて。「静寂」は彼らの音なのだ。彼らの顔の映像は、そう物語っていないか。