大乗仏教について――法華経と密教1
智邈は『法華経』を前半部と後半部に二分する。(中略)そして、前半を迹門、後半を本門と名づける。迹門・本門の区別は仏身に関するところから来ており、本来の永遠のブッダの説いた後半部分が本門であるのに対して、前半部分はその本仏から垂迹した仏の教えを説くので迹門とよぶのである。(中略)
中国の天台では『法華経』の迹門と本門の両方に同じくらいの比重を置いて重視していたのに対し、日蓮は本門に高い評価を与え、永遠の釈迦仏の救済とそれに対する厳しい菩薩行の実践に生命を賭け、うち続く弾圧に耐え抜いた。
迹門は、方便品、法師品、嘱累品の一部のこと。本門は嘱累品より後にある六品。
方便品が成立するころには、大乗仏教の立場からは原始経典を護持する団体を小乗仏教と批判されてきたが、「大乗仏教の立場に立ちつつ、しかも仏教の統一性・全体性をふたたび回復しよう」という意図で導入されたのが「方便」という思想だったという。
二乗(声聞・縁覚)のために説かれた小乗の教えも、菩薩のために説かれた大乗の教えも、いずれも聴衆の理解能力に応じてブッダが説かれた巧みな教化手段であり、究極の真理ではない。両者は一見すると異なる目標を目指すようであるが、最終的には一切衆生が同じように仏になることができるのであり、それこそこの『法華経』にいたってはじめて明らかにされた究極の真理であり、ブッダが世に出現した目的もこの真理を人びとに説くことにあった
つまり、方便品は「真理の絶対性」。続く法師品では、「真実のブッダは久遠の昔に成仏し(久遠実成)、教えを説き続けてきた」という「ブッダの存在について、その永遠絶対性」を明らかにしている。また、菩薩の実践についても説かれている、という。
PP.106-108
密教については全然知らないので、分類から学んでいく。
従来、日本では密教を雑密と純密に分けることが多く行われた。雑密というのは、原始仏教以来、断片的に説かれてきた呪法の類であり、『大日経』『金剛頂経』のように体系的・総合的に説かれたのが純密である。
チベット密教が知られるようになってからは、
- 所作タントラ――儀式の作法などについて説く。
- 行タントラ――外面的な作法の上に内面的な瞑想が加わる。
- 瑜伽タントラ――自我と絶対者の合一を説く。
- 無上瑜伽タントラ――瑜伽タントラをさらに発展させ、身体的・生理的要素の強い瞑想を説く。
以上の四分類法があり、このうち所作タントラは雑密にあたり、行タントラは純密のうちで『大日経』など、瑜伽タントラは同じく『金剛頂経』など、無上瑜伽タントラは『秘密集会タントラ』など、中国・日本には部分的にしか伝わらなかったタントラ類を含んでいる。
密教と顕教の峻別については明日まとめる。
文字について
文字という問題を考えるときに、どうしても押さえておかねばならないのは、「文字は言葉とともにある」「言葉を離れて文字はない」――これが文字を考えるときの大前提である。
P.69
もし、漢字を文字と定義するならば、ひらがなやアルファベットは文字ではない。逆に、ひらがなやアルファベットを文字と定義するならば、漢字は文字ではないとの結論に至る。
言いかえれば、漢字のように「意義」までをそなえたものを「文字」だと定義するならば、「r」や「あ」は「文字」ではない。逆に、「r」や「あ」が「文字」だとするならば、「雨」のように意味を有するまでに機能が高まった存在は「文字」を超えている、ということになる。
それでは、漢字において、アルファベットの「r」やひらがなの「あ」のように語を構成する単位に相当するものは何か? それはヨコ画やタテ画、左ハライや右ハライ、転折などの、一字を形づくる点画や部首である。
目から鱗。面白く、納得させられるが、実際のアカデミックな研究ではどうなのかは分からない。PP.124-125では、昔の本で同様の主張をしている人がいて、「深く考えさえすれば、誰もが自然に行き着く考えなのである」と述べている。いずれにせよ、著書のこの主張が基軸となって以降は展開する。
読書感想文
とりあえず最近読んだ本を列挙(するだけ)。
- 作者: H.D.ソロー,Henry David Thoreau,飯田実
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- 作者: ヘンリー・ジェイムズ,大原千代子,青木次生
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1997/09/10
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- 作者: ヘンリー・ジェイムズ,青木次生
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断片
- 自分はなにかをなしうると考える、その唯一無二な自分の存在価値は、「社会」ではあっさりと否定される。そしてそれを受け入れていくのが大人になるということだ、という。腹にどっしりと堪えるほどわかる。が、これを、単に「社会」、ひいては「社会人」の話だということになっているので、私はとたんに反発したくなる。
- 私は真・善・美の人間である、という私自身の自己評価は変わらない。が、最近は、美・善・真の順がよく納得できる。
- 「美は感性であり、感覚である。感覚こそが人を納得させうる」というのは、美をあまりに単純化しているという指摘はあるだろう。また、よくわかるが、ただ、そういう七面倒臭い話をして韜晦にはしるのはもう私の趣味ではない。それに、その手の主張は、感覚ということをよくわかっていない。人間は、「感覚の奴隷」なのだ。と、言っておいた後に、言い過ぎていることは認める。