落伍者たち

「否定すること」と「受け入れる素地がないこと」は違うと思っている。私は、前者は全然構わないと思う。否定したとしても、それに反論されて自分が間違っていると認めたならば、訂正すればいいだけの話だから。後者はコミュニケーションを端から拒否しているわけだから、問題外だが。
いわゆる社会人というのは、社会という秩序をいかに守るかという点に関して非常に神経をつかうし、そのためのマナーなりなんなりがあるわけだが、その点こうした「否定」は格好の攻撃材料となりうる。なぜなら、「否定」によって秩序が脅かされるからだ。かりそめでも「良好」な人間関係を維持することで秩序を保とうとするならば、当然のことだ。
しかし、そうした社会はおおかれすくなかれ脱落者を生む。微妙な均衡を崩し、単純で分かりやすい世界を望もうとする人々だ。私は彼らの気持ちがよくわかるが、やはり社会の側に身を置くことを選択する。それでも「社会人」などといって何か偉くなっているような醜さからは離れなければならない。「社会人」とはなんのことはない、単に社会の中で生きる人を指しているに過ぎない。それに相当する苦労は、落伍者たちにも当然あるのだ。その意味で、私は落伍者たちと「社会人」の間に存在することを望んでいる。
問題は、そうした七面倒くさい話なんか誰も理解しなくて、みんな一生懸命「社会人」をやっていることだ。それ自体を否定する気持ちは、私にはない。なにせみんな精一杯生きているから。ただ私が、心に留めながら生きていくしかないという類のものだろう。
ちなみに、社会なるものは秩序を前提としているが、その秩序が崩壊すれば新たな社会が成立する。この社会では前の社会のルールは適用されないし、新たなルールのもと秩序が再構築される。このとき、前の社会で精一杯社会人を演じてきた人々は、対応を迫られる。「考えてもいなかった」などと言うに違いない。先の金融恐慌でもたくさんいた。「リーマンが倒産するなんて」と。「戦争が起きるなんて」と言わないようにね、とは皮肉として思っている。
とつぜん落伍者となった方々は、あらたな社会で差別されるとき、なんと思うだろう。理不尽と思うのはよしたほうがいい。前の社会で自分がやっていたことだ。
ところで、文学者がのおおくが落伍者であるというのは、こうした意味で理解されるだろう。つまり、秩序を不安定にし、不安がらせることによって、「社会人」ではなく人間を描こうとするからだ。畢竟、文学は不愉快にならざるをえない。
人間性と社会性を混同している人もおおいのではないか。その典型が冒頭の「否定」に対する反応だろう。「否定」が人間性を表す面はたしかにある。だが、基本的に社会性の問題だ。理由は、書かなくても理解されるものと思う。