「ヒューマニズム」の自家中毒

人間を(一般的な意味での)理性をもった存在とみなし、理性をもたねば動物と同じだという人は結構いる。分からないでもないが、この場合、様々な問題をはらんでいることに留意しなければならない。理性がなければ人間でないというのならば、理性を失う疾患を抱えた人々を、人間ではないといわなければならないからだ。
実際、ヒューマニズムの歴史を紐解けば、いわゆるヒューマニストが、理性をもたぬと判断した人々を次々に蹂躙してゆく話にでくわさざるを得ない。論理的には正当な結末であるにも関わらず、多くの人々は戸惑うだろう。それは、弱者救済という人道的な言葉を正義と考えながら、同時に人間の素晴らしさを唱える人間中心主義者であるからだ。人道・博愛主義と人間中心主義は、いっけん両立しそうだが*1、すでに述べたように理性を境にしてとる行動に違いが生じてしまう。
G.K.チェスタトンは『正統とは何か』において、次のように述べている。

狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。

チェスタトンに言わせるならば、彼らヒューマニストこそ「狂人」以外のなにものでもないわけである。「狂人」は思いのほか論理的である。彼らは彼らの論理において常に正確だし、ゆえに彼らは自分が間違いであるとは思わない。このような視点をかりるならば、そもそもにして理性なるものが、どれだけ人間を規定する尺度として有用かという話になるはずだし、人間を中心に据えるということの無理について多少なりとも自覚されるはずだ。
と、いいながら、最後になって混ぜっ返すようで申し訳ないが、そうした判断すら理性的であるといえばそのとおりなのだ。いってみれば人間は人間を中心から遠ざけようとしながら中心に居座っている、あるいはそのように思っている。問題は、その上に神を被せるかどうかだ。なんてことはない、我々は、現代人といいながら中世から近代の問題をいったりきたりしながら自家中毒に陥っているにすぎない。「すぎない」といってもそれしかないのだから中々に難しい。

*1:実際には両立できる地点はあるのだろう。つまり、人道・博愛主義者が、弱者と呼ぶ人々を自分たちと違う哀れな存在とみなしていると考えれば、人間中心主義者たちの非理性の人々への軽蔑と繋がざるをえないというわけだ。