ろくでなしは抹殺されるのか

  • 社会的常識 - 黎明日記
    • 問題は常識が「ない」ことではなく「実践できない」ことにあります。私は社会的常識を知っていますが、その範囲でおとなしくしている能力が「ない」のです。
  • タイトルからテオリアさんがろくでなしと言っているようなものですが、私はろくでなしが好きなので悪意はありません。というよりも、現在のろくでなしが許容されない状況に対して反発したいと思っている。
  • 弱者といいろくでなしといい、それらの言葉はおおよそ発言者の傲慢と表裏なのだけれども、それでもなお彼らの存在自体は否定できない。人間が発言する、あるいは存在するということすら傲慢なのかもしれない。そうした留保は、自らの傲慢さを引き受けながら発言するということに繋がざるを得ないし、私はそうしたいと思っている。
  • とはいえ、社会的な生き物である人間が生きるためには、慣習なり常識なりといったものと無関係ではいられない。社会秩序を守るという意味での慣習や常識の役割も認めなければならない。
  • 色川武大阿佐田哲也)の作品は、ろくでなしと呼ばれた人々の生き様を描いている。色川は、自身がろくでなしであった過去を持つ。阿佐田哲也名義で書かれた『麻雀放浪記』は、彼が「雀聖」と呼ばれる所以がみてとれると同時に、そのろくでなしのありかたも活写されている。しかし、いっぽうで、彼は作家だった。もちろん、作家というのは昔からカタギではなかったわけだから、大して変わらないとも言えるのだが、少なくとも色川が体験してきた世界の厳しさや陰影といったものとは違うものだっただろう。また、彼が作家だったということは、彼が描いてきたろくでなしたちのように、人生に対する軽蔑をまっとうできなかったということでもある。その自覚こそが色川を作家たらしめたのだ。
  • 色川武大の文章は、文字が読める限り誰が読んでも素晴らしいと分かる。が、それを分かったところで何になりもしない。より大切なのは、真のろくでなしたりえなかった彼が、しかし生きづらさを抱えながらどうしたのかを感じることだ。
  • と、ここまで一連の文章を書いてきたのだけれど、結局、これは文学と生活の問題であって、現代、文学を読まない人々にはなんら響くことはないのだとも分かっている。生活には関心があっても、ライフハックがそれを成功させると信じている。現代、教養がなくなったというが、実はライフハックこそが現代の「教養」なのだろう。