断片

  • 多くのことは修復不可能だが、同じくらい誤魔化すことはできる。
  • 安楽であることは、涅槃の静寂に赴くことである、という趣旨のことを釈迦はいった。が、現代、安楽であることとは、涅槃の静寂から遠ざかることである。
  • と、そうした凡夫の「誤解」は古代からあって、釈迦はこれを「無明」であると退けた。
  • 現代、哲学やら科学やらで、「無明」は智慧の光に照らされているようにみえる。が、どうもそうではないらしい。堂々巡りする自意識は、日本では近代文学以降、お家芸ではある。そして、それこそが「無明」だと、すでに釈迦は言っている。

expiratory muscle strength training

アンチエイジング・ニューロリハドクター: 呼気筋力強化訓練の嚥下機能改善効果(PD/RCT)経由でAspiration and swallowing in Parkinson disease and rehabilitation with EMSTを知る。
去年の日本摂食・嚥下リハビリテーション学会誌上*1では、「EMSTは,舌骨筋群の運動単位動員とtype?繊維の活動量を増加させる可能性があり,筋力強化として有効なトレーニングになることが示唆された」という結論が掲載されていたが、文献に上記のものが入っていたかは未確認。
Cf:脳卒中患者に対する呼気筋トレーニングが呼吸筋力と咳嗽力に及ぼす効果(PDF)

胃瘻

とある政治家が、胃瘻の患者をみて「エイリアン」と発言したことが問題だという。
経口摂取が日常であり、胃瘻栄養が非日常であるというのは、当たり前のことだ。したがって、非日常の象徴たる「エイリアン」が胃瘻に喩えられるのは妥当だ。不適切だというのは、印象の問題だ。要は、綺麗な印象だけで物事をとらえたい人間にとって、許されざる表現であるというだけだ。
私は胃瘻栄養の患者を多くみているため、非日常を感じることはない。ましてや、「エイリアン」という言葉に引っかかる人々が想起しているであろう「不気味さ」や「非人間的」な実感はない。患者の家族や医療者も同様だろう。だからこの比喩に不快感を覚えずにはいられないわけだ。
しかし、胃瘻は、良い悪いは別として、非日常なのだと確認しておかなければならない。そこからしか、胃瘻の適用となりうる患者や家族の、生き方の問題を考えることができない。
管につながれ、味を楽しむことなく胃に直接栄養を流し込むことが、本当にその人にとってよいことかどうか。見慣れた命題ではある。見慣れたことを分かったような顔をして通りすぎるのは青年の特権だが、そんなことは彼らに任せればいい。また、綺麗事で胃瘻の非日常に目を背ける「善人」どもも、勝手にやればいい。
かの政治家はよく知らないが、このような騒ぎとなっている以上、問題提起としての表現としては適切だったと評価してよいだろう。
ただし、最後に書いておくが、胃瘻栄養が、医学的観点のみならず、患者の生き方にとってみても、よい結果を残した事例を多く知っているし、見ている。経口摂取と胃瘻栄養は状態によっては併存しうるし、治療により胃瘻栄養から経口摂取への移行が可能な場合がある。臨床ではあらゆる判断の材料がありながら、なお一般化しえない、明瞭な解答がえられないのが胃瘻などの処置なのだ。

村上春樹は如何にして「話す」か

小澤征爾さんと、音楽について話をする
むろん,村上春樹氏が「始めに」で書いている.

そういう意味ではこれは一般的な意味でのインタビューでもないし,いわゆる「有名人同士」の対談みたいなものでもない.僕がここに求めていたのはーーというか,途中からはっきり求めるようになったのはーー心の自然な響きのようなものだ.僕がそこに聴き取ろうと努めたのは,もちろん小澤さんの側の心の響きである.かたちとしては僕がインタビュアーであり,小澤さんはインタビュイーであったわけだから.でも同時に僕がそこで聴き取るのは,往々にして僕自身の内なる心の響きでもあった.

かつて,オウム事件を扱ったアンダーグラウンド (講談社文庫)約束された場所で (underground2)に対して,インタビューをされている人の言葉が,まるで春樹氏の小説の登場人物のようだ,といった,なかば批判的な意見がみられた.そのとおりであって,じっさい,春樹的話法にすっぽり収まるようなかたちでの「ノンフィクション」が展開されていた.彼にとっては,それが必要だったが,なぜ必要だったかについては過去にいいだけ書いて飽きたし,いま述べることでもないだろう.
本書では,彼自身の「内なる心の響き」がみられるのは,その意味で当然だが,いっぽうで,小澤征爾氏が相手だから,それだけにもいかなかった.「現実的」な対話がなされていることに注目すべきだろう.たとえば次の一節は象徴的だ.小澤氏指揮,サイトウ・キネンの演奏するマーラー交響曲一番の第三楽章について,マーラーの音楽がなんの脈絡もないように聴こえることについて,演奏者はどのように弾いているのかを春樹氏が問い,小澤氏は「その前にやっていたことはがらっと忘れて,気持ちをぱっと切り替えて」と応える.それについて春樹氏がさらに突っ込む.

村上
「やっている方はあまり意味とか,必然性とかを考えちゃいけないということなんですか? ただ楽譜に書かれているものを懸命にこなしていく?」
小澤
「うーん,そうだなあ……あのね,こういう風に考えたらどうですか.最初すごく重い葬送のマーチがあって,それから下品な民謡みたいのが出てきて,それからパストラルの音楽になります.美しい田舎の音楽ですね.それからまた劇的に転換して,深刻な葬送のマーチに戻ります」
村上
「そういう筋をつけて考えるといい,ということですか?」
小澤
「うーん,ただそのまま受け入れる,というか」
村上
「物語みたいにして音楽を考えていくというのではなく,ただ総体としてそのままぽんと受け入れるということですか?」
小澤
「(しばらく黙考する)あのね,あなたとこういうことを話していて,それでだんだんわかってきたんだけど,僕ってあまりそういう風にものを考えることがないんだね.僕はね,音楽を勉強するときには,楽譜に相当深く集中します.だからそのぶん,というか,ほかのことってあまり考えないんだ.音楽そのもののことしか考えない.自分と音楽とのあいだにあるものだけを頼るというか……」
村上
「音楽の中に,あるいはその部分部分に意味を求めるのではなく,ただ純粋に音楽を音楽として受け入れる,ということですか?」
小澤
「そうなんです.だからね,人に説明することがとってもむずかしい.自分なりにその音楽の中にすっぽり入っちゃう,みたいなところがあります」

ここで春樹氏が理解できなかったのは無理もないと思うし,実際,私もなんどか読みなおしてやっとわかったのだが,その理由はおいておいて*1,相互に理解が困難な対話というものが登場するのは,春樹氏の著作の中では珍しいのではないか.そのなかで,春樹氏は,理解がむずかしい場面において,あくまで自分はインタビュアーであるという距離をとろうとする,いわば「大人」な対応を選択した.この点は,春樹氏がいう「僕自身の内なる心の響き」から逸脱した部分だが,とくに面白いと思った.

*1:と書いておいてなんだが,演奏を,作家的な創造性にたとえるのではなく,翻訳にたとえるのが小澤氏のいわんとするところなのだろう.翻訳は,やはりなるべく原著に忠実であるべきだが,ただ横のものを縦にする作業ではなく,訳者の解釈が登場するし,そこが面白みでもあるわけで,その点で演奏とちかいのではないか

日記

  • 最高気温-3.1度,湿度56%,気圧1007.6Pa,晴一時雪
  • 仕事.ミーティングで今日が忘年会だとお知らせがあり,すっかり忘れていた私は,比較的遅く出勤したので,仕事が時間内に終わらないだろうと思った.果たしてそのとおりになり,少し残業をして,家に帰り着替えてから忘年会に参加することになった.忘年会では挨拶まわりが恒例で,まあうんざりはするのだけれど,それ以上に,酒が入って他人の領域に土足で踏み込もうとする人が多いことに一番辟易する.私はつい下品だと思ってしまうから,踏み込まれたらあまり関わらないように無難に過ごそうとする.
  • 2次会はカラオケへ.色々歌わされる.1時前には帰宅.

日記

  • 最高気温3.2度,湿度72%,気圧1005.4Pa,雪時々曇一時晴
  • 仕事.進行性疾患で1ヶ月に1度評価に訪問している方が,先週より誤嚥性肺炎で入院され,退院したので,今月の評価も含めて訪問.明らかに機能低下をきたしており,羸痩著明.正月も近いため,一時しのぎでトロミ剤の使用をすすめるも,家にひとつもないため,職場よりサンプルを多数持って再訪問.実技でトロミをつける方法をアドバイスする.
  • 相方の眼球の充血は引いてきた.