借りぐらしのアリエッティ

nombre2010-07-19

米林宏昌初監督作品。宮崎駿の技術や人物の捉え方をそのままトレースしたように本作は作られている。が、それは悪いことと思わない。若手育成に取り掛かっているジブリとしては最善の方法と思われる。映画監督が表現者としての自意識を働かせはじめたとたん、ジブリ的なものはアンチの対象にならざるをえない。かつて、宮崎駿が、手塚治虫に対してそうであったように。
本作では小人の世界が基調となっており、視点は従来の人間のものから大幅に下に据えられることとなる。小人の話で思い出したのだが、昔のあるイギリス人作家は、巨人か小人になれるとしたらどちらがよいかという話題の際、大勢が巨人と応えるなか、ひとり小人と応えたという。それというのも、小人ならば庭を歩くのでさえ冒険に満ちている、昆虫は怪物のようだろうし、葉はジャングルのようであるに違いないから。
アリエッティ」では、そのように冒険は進行される。人にみつからずに物を借りなければならない。鼠や蛙、猫に食われるかもしれない。だが、葉や茎では大樹のように身を隠せるし、ダンゴムシは丸まってお手玉になってくれる...。同時に、そういう活劇には宮崎流にいって、欠かせないものがある。覚悟と成長の描写だ。アリエッティの表情が、快活な少女から覚悟を決めた凛々しいものとなったとき、瞳はまっすぐに目標を据えるだろう。冒頭に、人物の捉え方といったのは主にこのことである。また、視点が地面を這っているために、屋根に登った時にみえる風景の美しさは、むろん映えるであろうことも、これまでの宮崎映画ではおなじみの感覚構成の技術だ。他にも、力をいれる際の身体の動きやカメラワークなど技術的な同一性を挙げるのは可能だろう。
冒険はしかし、それ自体が目的とはならない。生きていくための人間との共闘と共感は、「耳をかくせば」のように純粋なかたちで描かれ、冒険を加速させる。悪役は正義との両義性をはらんでいたこれまでの作品とは違い、あくまでライトな悪、あるいは障害としてあるのみだ。その点、昨今の宮崎作品とは違うといえるかもしれない。
難癖をつけているように読まれても困るのでいっておくが、総じて素晴らしい映画だった。映画がはじまってすぐに、私はなんだか祈りたい気持ちになった。これほどまでの映画は、一年に何作あるだろうかとさえ思う。が、ただ一点難癖をつければ、音楽の使い方があまりよくない。これだけ素晴らしい映像なのだから、音楽で無理矢理盛り上げなくとも十分だし、むしろ音楽が映像の邪魔さえしていることもあった。だが、音響という点ではかなり意識的で、小人の世界をよく表していたと思う。