『ぐるりのこと。』

ぐるりのこと。

カナオ(リリー・フランキー)は頼りなく生活力に乏しい夫で、片方翔子(木村多江)は夜の夫婦の営みすら日を決めカレンダーで印をつけるほど几帳面な妻である。冒頭、カナオが家に帰ると翔子との痴話喧嘩が始まる。そこはかなりの長回しで撮られていて、出演者の演技力が自然なためか(そしてそれこそがいちばん難しいのだが)、不注意な観客なら見逃すほどだ。これだけで、私には奇跡的だと思った。
映画がもし奇跡というものを観客にみせることができるとすれば、それはお伽噺ではありえない。お伽噺は奇跡の話ではなく必然の話だからだ。奇跡は現実にしかないし、現実を映すことでしか奇跡は捉えられない。しかし映画は、限りなく現実と肉薄しながら、フィルムの上に固定され再現される。そのため、本当の現実は撮れないし、あるとすれば現実的な何かでしかない。その地点において、監督ないし表現者は存在しうる。橋口亮輔監督が出演者に課したのは、奇跡を再現し、限りなく現実に近いものを表現することだったのだろう。
翔子は「子供をダメにした」ことで、精神を病んでしまう。一方カナオは、妻の病をゆっくりと優しく包む眼差しを向けながら、法廷画家として着実に歩んでいく。90年代の代表的な事件の数々を目にしながら、カナオが考えていたこととは何か。日頃罪や悪を前にしながら、罪の意識にとらわれる妻をどのように見つめるのか……。本作では様々な点から考えることができる。答えはあるようでない。我々が分かるのは、どう転んでもおかしくはなかった二人だが、しかしこのような結果でしかありえなかっただろうということだ。なぜ分かるかと言えば、その過程に手を抜いていないからだ。回復するというが、一体どうして回復できるのか、どのように回復できるのか、その過程は鮮明に画面に映っていたし、感動的だった。
奇跡的な映画は、したがって、我々を本当の意味で感動させる力を持っている。『ぐるりのこと。』はそうした映画だと思う。