その男、凶暴につき

その男、凶暴につき [DVD]

北野武はこのような映画を撮っていた。彼の笑いは狂気と紙一重だ。北野演じる刑事我妻は、職業を聞かれれば「鉄砲の通信販売」と応える。追いつめた犯人を車で轢いても笑いの間は忘れない。したがって結末が「きちがい」じみてくるのは必然だろう。しかし本作は、北野監督の美意識と感性によって技術的欠点がおぎなわれ、成功している、いわば幸福的な作品である。
この作品のあと、「ソナチネ」では北野監督の美意識が最大限まで生かされることとなるが、それはおいておこう。それよりも、北野武という人物が、暴力と美をもちいてウェットな叙情(死を散華として扱う=虚無=日本的美?)を描いてきたことを考えれば、本作はむしろ、純粋な暴力をドライに描いているという点で、昨今の北野作品とは一線を画している点こそ強調しておきたい。黒沢清監督が得意とする暴力のとらえかたに近いという感じもする。が、それも話としては飛びすぎるか。
暴力が作品として成立するのは、どのようにしてだろうか。それは、暴力を実感として観客に感じせしめることだ、と考えられる。が、同時に、暴力が何らかの意味をもっていやしないかと考えるのもまた、人間の行動である。圧倒的な力に意味を求める。あるいは何も意味なんてないのかもしれない。地震は岩盤のずれにすぎないが、歴史的には多くの人々が意味を付与してきた。道中で敵に襲われ、銃を持つ手を蹴り飛ばし、発砲先を自分から通行人の若い女性に向けることは、ほぼ自己防衛以上の意味をなさない。が、唐突に脳天をぶち抜かれた女性やその連れにとって、どのような因果がそこにあるのか、理不尽ではないかという思いはあるだろう。そう、暴力とは理不尽であるということだ。
理不尽な暴力、という言い方はどこかしらおかしい。すでにして暴力とは理不尽のことだからだ。敵に薬漬けにされた妹を殺したあと、我妻はどこかに行こうとする。が、彼はどこにも行けない。彼もまた、理不尽に、あっというまに射殺されるからだ。しかし彼は、どこに行こうとしたのか。どこにも行く場所はない。彼は彼を殺すことすらできない。なぜといって、それは理不尽ではないからだ。あくまで彼は、理不尽に殺されなければならないのだ。だから彼は歩いたのだろう。