冗談としての世代論

私もわりと世代論は好きだが、ほとんど冗談のようなものだと思っている。ときに冗談は、本質に近いこともある。だからこの手の冗談は冗談と断った上でやると有益だと考えている。
増田で83年生まれはもっと怒れというエントリがある(わざわざリンクしないが)。酒鬼薔薇事件などの凶悪事件が起きる度に世代論に還元されることへ怒りを覚えろというわけだけれど、私は、ある程度の世代の雰囲気は分かる気がする、と冗談で言っておく。酒鬼薔薇の犯行声明文を柳美里がホメていたような、アブノーマルを評価する80年代的残滓があった。今なお続く、「なぜ人殺しはいけないか」の話はこの年代がテレビリポーターに対して語った言葉からはじまった。きっと彼らは、真剣に考えたことはなく、漠然と思っていることを冷笑的に言ってみたにすぎないのだろう(90年代的な光景/とここでは年代論を)。なんらかの象徴的な要素の重なりによって世代論が形成されることは、感覚的にあっさりと認めてしまおうと思う。
しかしこの年代は単なる世代論として語れないところにもどかしさがある。別の増田の世代論に関するエントリでは、上下の世代に特徴的な出来事あり、挟まれた83年世代は「マーケティング的に忘れられた世代」であると指摘している。よく分かるような気がする。たとえば団塊の世代は、イデオロギーとしての世代論として語れるし、70〜80年代に青春を迎えた世代はモードとカルチャーによってある程度の括りかたは可能だろう。そう考えると、コギャル世代とポケモン世代に挟まれた83年世代は、いったいなんと形容するべきか難しくなってくる。
私は、モードとカルチャーとマーケティングの空白期に思春期を迎えた83年世代は、嘲笑という形で表出される自意識と、攻撃性という自意識の決壊のアンビバレントに苛まれた世代だと考えている。だから、2chは彼らの場だったと私は思っている。さらに言えば、ポケモン世代はブログ世代だろうし、コギャル世代はウェブからわりに遠い場所にいると考えている。ブログ以前のテキストサイトは83年世代とコギャル世代の混合だろう。
なんてことを書いてみたけれど、やっぱり冗談の域を出ない。しかしまあ、感覚的に分類しておくと、人を見るときに便利ですよ。偏見の危険が大いにありますが。あと、こんなのmixiに書いておけば良かったと反省。