胡同の理髪師

nombre2008-05-10

  • とてもいい映画を観た。哈斯朝魯(ハスチョロー)監督作品『胡同の理髪師』である。
  • 2008年におこなわれる北京オリンピックのしわよせは、1964年に開催された東京オリンピック同様、急激な都市開発というかたちであらわれてきた。北京旧城内の一角(胡同)に古くから理髪業をおこなっていた靖奎(「チン爺さん」役でこの映画の主人公であり、本人。御年93歳の現役理髪師)も、その余波のただなかにいる。彼は、律儀で正直に、きちんと生きようとする立派な人である。一例を挙げよう。ある日役人が、開発のためにこの一体を解体しようと調査に来ていた。そこに遭遇したチン爺さんは、解体に反対するかとおもいきや、どうぞやってしまいなさい、というふうである。チン爺さんが許せないのは、そんなことではなかった。解体予定の建物に役人が「拆」と書くべきところを「折」と書いていることに、「ちゃんと書け。いい加減な仕事をするな」。チン爺さんにとっては、きちんと仕事をすることのほうが、なにより大事なのだ。胸ポケットにしまわれた櫛で乱れた髪をなおし、毎日きまった時間に寝て、きまった時間に起きる。こういうことが、チン爺さんにとって生きるということなのだろう。
  • 映画は、どうしてもおとずれてしまう死というものを常に感じながら、あるいは接しながら、きちんと生きていくチン爺さんをとらえる。これはどういうことかといえば、死をまえにして虚無になるのはたいてい若者のお遊びにすぎない、生きるということを淡々とこなすことは、死とおなじくらいむずかしく、やりがいがある、ということだろう。また彼はいう。「人間、死ぬ時もこざっぱりきれいに逝かないと」「有名人も金持ちも、人生は一度きり」。名声を得たひとびとの散髪もしていた過去をもつ彼にとって人生とは、かならずしも「有名人」や「金持ち」になることを至上としない。それもひとつの生き方だが、大事なことではないのだ。彼は、友人のミー老人が「この年になると、生きるのが精一杯、誰も見やしない」という言葉にたいして、次のようにいう。「だからって、だらしない真似はよしなよ」。
  • 映像に特異な点はない。人物をとらえたカットやコンポジションは、真正面や真横からがおおい。かといって、それが弱点というわけではない。むしろそのようにとらえることは、この映画にとって必要なことであったとおもえる。音楽もかなり控えめにつかわれて、映像と人物で勝負している。よほどこれらに自信がないとできないわざだが、すんなりとこなしているあたりはさすがだ。あえて弱点を挙げれば、チン爺さんの死の陰が、あまりにも簡単にでてくる点(演出においても)と、高級マンションで生活する人間の描きかたが、あまりに嫌みで余裕のない都会者(≒田舎者)のステレオタイプだった点で、これらばかりはうんざりしてしまった。
  • ところで、芸術に政治を持ち出すなど野暮なことは気が引けるのだが、やはり触れずにはいられない。中国という国についてだ。かの国は、むろん共産党の国であって、言論の自由は保証されていない。したがって、政府の施策にたいする反対表明はできないし、そもそも反対する意思すらもちえないような国だと私はおもっている。さいきんのチベット問題にかんするかの国のひとびとの統一的な見解をみればそうとしかおもえないのも、まあ仕方のないことだとおもう。しかし、この作品は、さりげなく人間や日常を描くことで、非日常、非人間的な行為を批判的に描くことに成功している。これは、芸術的な価値を維持しながらなお、政治にたいしてアプローチできる唯一の方法だろう。むろん、それは運動という政治活動とはおおきく異なっている。考え、ただいること。それこそが、思想家や芸術家にとっての使命であり、大事である。そう、あたかも、チン爺さんが解体に怒るのではなく、半端な仕事を怒ったように、だ。