いのちの食べかた

いのちの食べかた

  • 昨日は、ニコラウス・ゲイハルター監督の『いのちの食べかた』を観ながら、近現代の哲学にについて思い浮かべることになった。それも、あまりにも単純かもしれないが、テクノロジーについてである。
  • 映像が美しい。たとえばビニールハウスを丘の上から眺めた図。しかし、その美は、「いのち」を人間の食にするための合理化のことでもある。ひよこはただの「物」のようにベルトコンベアーで運ばれ、荷積みのためにポンポンと高速で移される。農薬を散布するための黄色の飛行機は、空の青と、畑のひまわりとあいまって、詩的な美を演出している。
  • こう書くと、ベンヤミンが『複製技術時代の芸術作品』の中で、マリネッティの一節「戦争は美しい。なぜならそれは、大型戦車や、幾何学模様をえがく飛行機の編隊や、炎上する村々から立ちのぼる煙の渦や、そのほか多くの新しい構築物を創造するのだから」という一節を引いて彼を批判した文脈と、何か重なりそうな気がする。
  • しかし、美というが、この映画における美は、ビニールハウスやひよこ、農薬散布の飛行機だけではない。マリネッティ的な美からいえば、豚の腹をさく機械の動きでさえ美といえるだろう。実際、この映画はマリネッティ的な美と、鑑賞者である人間の偽善との葛藤を期待している。
  • ところで、映画には、時折、工場や農場の従業員の食事風景が挿入される。彼らの食事は、むろんフルコースを味わうようなものではない。パンにジャムを挟み、コーヒーを飲むといったものである。食べおえたらまた、彼らは「仕事」に従事するだろう。われわれと同じである。仕事のための食事。
  • フィリップ・ラクー・ラバルトは『政治という虚構―ハイデガー芸術そして政治』において、ハイデガーの言葉を紹介している。「農業は現在、機械化された食品工業である。その本質に関しては、ガス室や殲滅キャンプにおける死骸の製造と同じであり、経済封鎖や国家の兵糧攻めと同じであり、水爆製造と同じである」。鶏から効率的に「卵」をとり、豚を「肉」にするのと、人間を資源として殺戮し、石けんを製造するのとは変らない。ラクー・ラバルトが、この言葉を半分は認めながらも憤慨する理由は重要だが、われわれもまた、テクノロジックに資源として労働に従事していることはかわらないようだ。