山本七平『小林秀雄の流儀』(新潮文庫)

では思索をするにはどうしたらいいか。「一身一頭で、二生を経る」ことだ。これは世の中が変らなくても変りはない。小林秀雄は徹底した一身一頭人間だ。そして一身一頭人間になってはじめて対象を「見る」ことができる。思索とは「見る」ことだが、右の頭が左の頭を批評し、左の頭が右の頭を批評しても、それは何も見ていないということだ。だが本人はそう思わず、それを最も思索的な行為だと誤解する。その典型的なばからしい作業は自己批判だ。これを強制されてやればもう茶番劇だが、そうでなくとも、その自家中毒は救いがたい。
宮本武蔵の独行道のなかの一条に『我事に於いて後悔せず』といふ言葉がある。菊池寛さんは、よほどこの言葉がお好きだつたらしく、人から揮毫を請はれるとよくこれを書いてをられた。菊池さんは、いつも『我れ事』と書いてをられたが、私は『我が事』と読む方がよろしいのだらうと思つてゐる。それは兎も角、これは勿論一つのパラドックスでありまして、自分はつねに慎重に正しく行動して来たから、世人の様に後悔などはせぬといふ様な意味ではない。今日の言葉で申せば、自己批判だとか自己清算だとかいふものは、皆嘘の皮であると、武蔵は言つてゐるのだ。そんな方法では、真に自己を知る事は出来ない、さういふ小賢しい方法は、寧ろ自己欺瞞に導かれる道だといへよう、さういふ意味合ひがあると私は思ふ。昨日の事を後悔したければ、後悔するがよい、いづれ今日の事を後悔しなければならなぬ明日がやつて来るだらう。その日その日が自己批判に暮れる様な道を何処までも歩いても、批判する主体の姿に出会ふ事はない。別な道が屹度あるのだ、自分といふ本体に出会ふ道があるのだ、後悔などといふお目出度い手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、さういふ確信を武蔵は語つてゐるのである」