美食家の憂鬱からはなれて

世界は、無知で純粋な者に平和が訪れるように出来ている。その道の「通」とか、専門家とかは、むしろ不幸な存在であって、知るということは満足できないということだからだ。だから、「美食家の憂鬱」とはまさしくこのことを指しているわけだが、池波正太郎の場合、およそそのような美食家とは程遠い存在であった。
おおくの美食家は、己の審美的(審味的?)な感覚を、まるで古代ギリシャのような観念的なものにしてしまう。観念である限り、彼らは頭で食べているから、いくら食べても満足しない。一方池波正太郎は、そのような観念的な食事には興味も示さない。
池波が愛したのは、味だけではなかったのだ。店の雰囲気、サービス、心遣い、店主の人柄、店に関わる記憶である。味はそこについてくるものであって、人間からはなれて頭で味わうものではない。心行くまで味わって、腹いっぱいにする幸福を、池波は書いてきたのだ。
したがって、池波が愛した名店を訪れて、その味の良し悪しを言うのはすこし違う。味は、店の味だけではなく、池波の味でもあったのだから、それは違うのである。
池波は、アメリカ映画の食事描写について語るとき、

映画にしろ、芝居にしろ、食物と食卓をあつかうとき、これが、その作品の主題や人間描写にからみ合っていないときは、まったくむだになってしまう。

と述べた(『食卓の情景 (新潮文庫)』)。「これは、時間的に濃縮され、切取って見せる芸術だからであろう」と続いているが、池波の数多くの小説を紐解けば、この原則を守られていることは指摘するまでもないだろう。
かくして池波正太郎の腹は満足する。しかしこれは、素人の幸福でもあるまい。腹におさめることを考えた、本物の通の幸福なのである。