文学の立脚点

ロシア文学として名高い「罪と罰」なんかはあらすじを読む限り高尚なライトノベルにしか思えないわけですが、文章量が多すぎてとてもじゃないけど読めない。逆に日本の「文学」とやらは舌足らずすぎて難儀する。そんなわけで自分の結論としては「エンターテイメントとしては退屈なだけで中二病患者向けのオモチャでしかない」。こんなことを書くとnombre さんに怒られそうだけど逆に反論を期待しています。文学作品ってのは今の自分にはつまらないだけだけど、情報量はとんでもないわけで、そのうちの一つにもアクセス出来ないのは残念だと思うし。

  1. 「日本の『文学』」というのが具体的にどういうものを指すのかいまいち分からないのですが。
  2. もし純文学のようなものを読んで「エンターテイメントとしては退屈」と言っているならバカでしょう。あるいは、純文学とエンターテインメントのクロスオーヴァーなどという二十年以上まえの話を持ち出すのでしょうか? それにしてもここに話を繋げるのは一苦労ですが。
  3. 「情報量」という観点から文学を語るという視点そのものから非文学的な思考だと僕は考えるので、そんなとこからいくら文学を眺めたって、面白いわけがないと思います。
  4. というか、「中二病患者向けのオモチャ」と煽るに足る根拠はなんですか?
  5. いくら僕が「なぜ面白いのか」ということを説いても、テオリアさんの「感性」なり「気分」なりが「面白くない」と「感じ」たならそれまでですし、その意味でテオリアさんがどう「感じ」ようと僕の知ったことじゃありません。文学が「中二病」で下らないと「思う」なら読まなければいいんじゃないでしょうか。僕はそれを強制したり、特定の「感情」や「感性」を「感性」によって切り捨てるようなことはしたくない(そんなことは徒労でしかないでしょう?)ので。ただ、下らない人間だな、と嘲笑することはあるかもしれませんが、それは僕の人格が出来ていないだけでしょう。
つまり「文学が中二病」とか「作家が中二病患者」ではなくて「文学は中二病患者のキャラ作りに使われる(そして自分にとってはそれにしか使えなかった)」という意味で書きました
(分かっておられるようなのでわざわざ書きたくはないのですが)それは不正確な比喩でしょう。「文学」を「オモチャ」と書くのは、「文学」の価値を「オモチャ」と同等のものに看做していると判断しうるから。悪いのは「中二病患者」であって、「文学」でないのなら、この比喩には補足が必要だと思います。
「煽るに足る根拠」というのはですね、お恥ずかしい話なんですが中学高校の時の自分がキャラ作りを含めて文系の分厚くて難しそうな本を読んでいたわけです。もちろん純粋な興味もあったわけでして、そうでなければ文学やらなんやらについて話題にもしないし、ましてや軽く叩きのめされたのに返事したりしないわけです
この文章はよく理解できませんでした。僕の読解力の問題かもしれませんので、申し訳ないですが、どの辺が根拠なのかを教えていただけるとうれしいです。
nombre さんに話題を振ったのは「読書の書」について何かヒントが得られるのではないか、と思ったわけです
それならばそれなりの書き方というものがあると思いますけれど。人が大事だと思っているものを、根拠なく否定して、「俺には分からん、教えてくれ」というのでは、こちらだって話し合う気はなくなるというものです。
nombre さんから「文学的な切口」や「純文学やら哲学書やらの楽しみ方や読み方」について助言を得られたらそれが一番助かるわけです
一般論として
たとえば、現代風にエクリチュールだのテクストの快楽だのといった言葉でそれを語るのは容易ですが、ここではあえて近代的な説明をすれば、文学というのは人間の生き方そのものだから、文学を読むという行為は、人生を考えることと同義である、となるでしょうか。人間の「生きる/死ぬ」ことについて、知りたいという知的欲求を持つものにとっては、文学を読むという行為は、学ぶ対象でも勿論あるけれど、同時に快楽にだってなりうる。
個別的な話として
とはいえ、文学といってもひとつではないから、「近代的な意味での文学」としてみれば、それこそ「ライトノベル」に過ぎない作品というのもあります。逆に、そういう作品でも「現代的な意味での文学」としてみれば、秀作といわれることもあるわけです。僕が最初に「日本の文学というけれど、具体的にはどの作品をいっているのか」と問うたのはこういう意味があったわけです。つまり、物によってはテオリアさんの仰るとおりの作品もありますよ、と。

というかそもそも。大塚英志氏が『物語の体操―みるみる小説が書ける6つのレッスン (朝日文庫)』で書いていたり、保坂和志氏が『書きあぐねている人のための小説入門』やその他の小説論で述べているように、エンターテインメント的なストーリーなんてのは、いくらでも再生できるものであって、これまでに誰も作らなかったストーリーなんてありえない。ストーリーは、どこかで自分の知っている話を(無意識か意識的かは別としても)繋ぎあわせて出来るものであって、それに気づいてしまえば、ストーリーに「新鮮な驚き」なんてものを期待する方が馬鹿らしい。そうであれば、「驚き」を得るためにはストーリー以外のものを見る必要があるとなるわけです。