胃瘻

とある政治家が、胃瘻の患者をみて「エイリアン」と発言したことが問題だという。
経口摂取が日常であり、胃瘻栄養が非日常であるというのは、当たり前のことだ。したがって、非日常の象徴たる「エイリアン」が胃瘻に喩えられるのは妥当だ。不適切だというのは、印象の問題だ。要は、綺麗な印象だけで物事をとらえたい人間にとって、許されざる表現であるというだけだ。
私は胃瘻栄養の患者を多くみているため、非日常を感じることはない。ましてや、「エイリアン」という言葉に引っかかる人々が想起しているであろう「不気味さ」や「非人間的」な実感はない。患者の家族や医療者も同様だろう。だからこの比喩に不快感を覚えずにはいられないわけだ。
しかし、胃瘻は、良い悪いは別として、非日常なのだと確認しておかなければならない。そこからしか、胃瘻の適用となりうる患者や家族の、生き方の問題を考えることができない。
管につながれ、味を楽しむことなく胃に直接栄養を流し込むことが、本当にその人にとってよいことかどうか。見慣れた命題ではある。見慣れたことを分かったような顔をして通りすぎるのは青年の特権だが、そんなことは彼らに任せればいい。また、綺麗事で胃瘻の非日常に目を背ける「善人」どもも、勝手にやればいい。
かの政治家はよく知らないが、このような騒ぎとなっている以上、問題提起としての表現としては適切だったと評価してよいだろう。
ただし、最後に書いておくが、胃瘻栄養が、医学的観点のみならず、患者の生き方にとってみても、よい結果を残した事例を多く知っているし、見ている。経口摂取と胃瘻栄養は状態によっては併存しうるし、治療により胃瘻栄養から経口摂取への移行が可能な場合がある。臨床ではあらゆる判断の材料がありながら、なお一般化しえない、明瞭な解答がえられないのが胃瘻などの処置なのだ。