村上春樹は如何にして「話す」か

小澤征爾さんと、音楽について話をする
むろん,村上春樹氏が「始めに」で書いている.

そういう意味ではこれは一般的な意味でのインタビューでもないし,いわゆる「有名人同士」の対談みたいなものでもない.僕がここに求めていたのはーーというか,途中からはっきり求めるようになったのはーー心の自然な響きのようなものだ.僕がそこに聴き取ろうと努めたのは,もちろん小澤さんの側の心の響きである.かたちとしては僕がインタビュアーであり,小澤さんはインタビュイーであったわけだから.でも同時に僕がそこで聴き取るのは,往々にして僕自身の内なる心の響きでもあった.

かつて,オウム事件を扱ったアンダーグラウンド (講談社文庫)約束された場所で (underground2)に対して,インタビューをされている人の言葉が,まるで春樹氏の小説の登場人物のようだ,といった,なかば批判的な意見がみられた.そのとおりであって,じっさい,春樹的話法にすっぽり収まるようなかたちでの「ノンフィクション」が展開されていた.彼にとっては,それが必要だったが,なぜ必要だったかについては過去にいいだけ書いて飽きたし,いま述べることでもないだろう.
本書では,彼自身の「内なる心の響き」がみられるのは,その意味で当然だが,いっぽうで,小澤征爾氏が相手だから,それだけにもいかなかった.「現実的」な対話がなされていることに注目すべきだろう.たとえば次の一節は象徴的だ.小澤氏指揮,サイトウ・キネンの演奏するマーラー交響曲一番の第三楽章について,マーラーの音楽がなんの脈絡もないように聴こえることについて,演奏者はどのように弾いているのかを春樹氏が問い,小澤氏は「その前にやっていたことはがらっと忘れて,気持ちをぱっと切り替えて」と応える.それについて春樹氏がさらに突っ込む.

村上
「やっている方はあまり意味とか,必然性とかを考えちゃいけないということなんですか? ただ楽譜に書かれているものを懸命にこなしていく?」
小澤
「うーん,そうだなあ……あのね,こういう風に考えたらどうですか.最初すごく重い葬送のマーチがあって,それから下品な民謡みたいのが出てきて,それからパストラルの音楽になります.美しい田舎の音楽ですね.それからまた劇的に転換して,深刻な葬送のマーチに戻ります」
村上
「そういう筋をつけて考えるといい,ということですか?」
小澤
「うーん,ただそのまま受け入れる,というか」
村上
「物語みたいにして音楽を考えていくというのではなく,ただ総体としてそのままぽんと受け入れるということですか?」
小澤
「(しばらく黙考する)あのね,あなたとこういうことを話していて,それでだんだんわかってきたんだけど,僕ってあまりそういう風にものを考えることがないんだね.僕はね,音楽を勉強するときには,楽譜に相当深く集中します.だからそのぶん,というか,ほかのことってあまり考えないんだ.音楽そのもののことしか考えない.自分と音楽とのあいだにあるものだけを頼るというか……」
村上
「音楽の中に,あるいはその部分部分に意味を求めるのではなく,ただ純粋に音楽を音楽として受け入れる,ということですか?」
小澤
「そうなんです.だからね,人に説明することがとってもむずかしい.自分なりにその音楽の中にすっぽり入っちゃう,みたいなところがあります」

ここで春樹氏が理解できなかったのは無理もないと思うし,実際,私もなんどか読みなおしてやっとわかったのだが,その理由はおいておいて*1,相互に理解が困難な対話というものが登場するのは,春樹氏の著作の中では珍しいのではないか.そのなかで,春樹氏は,理解がむずかしい場面において,あくまで自分はインタビュアーであるという距離をとろうとする,いわば「大人」な対応を選択した.この点は,春樹氏がいう「僕自身の内なる心の響き」から逸脱した部分だが,とくに面白いと思った.

*1:と書いておいてなんだが,演奏を,作家的な創造性にたとえるのではなく,翻訳にたとえるのが小澤氏のいわんとするところなのだろう.翻訳は,やはりなるべく原著に忠実であるべきだが,ただ横のものを縦にする作業ではなく,訳者の解釈が登場するし,そこが面白みでもあるわけで,その点で演奏とちかいのではないか