1Q84 BOOK3雑感

1Q84 BOOK 3

  • 『1Q84』雑感のつづき。
  • BOOK3ではリーダーの予言に多少の変更が加えられた。これにより、プロットも天吾の内面的ドラマ≒小説内小説の世界から逸脱し、青豆との再会という「猫の街」からの帰還を成し遂げる方向に進む。
  • リーダーの予言の大きな変更点は、1Q84年から1984年に戻る穴についてだ。BOOK2においては、「ドアは一方にしか開かない。帰り道はない」ということになっていた。が、BOOK3では覆される。これが、青豆が企図した(望んだ)結果であるという。そういえば、エピグラフには"It's Onlly a Paper Moon"の歌詞が掲げられていた。

    It's a barnum and bailey world,
    Jast as phony as it can be,
    But it wouldn't be make-believe
    If you believed in me.

  • 私はなかば予言的に、「そのうち春樹氏は、素朴な、作中に登場する『空気さなぎ』のような作品を書くのかもしれない。宮崎監督の『崖の上のポニョ』のように」と書いていた。これについて言えば、はやくもBOOK3で的中してしまったと思う。BOOK1,2においては、青豆はあくまで、『ミクロの決死圏』的に天吾の「中」にいて、天吾を助けるために存在していた。セックスはリトル・ピープルとの関係において必然性を帯び、決して男女が純粋に結びつくためのものではなかった。物語は善悪を超えた存在との対峙がテーマだった。が、BOOK3では、青豆と天吾が結ばれることがテーマとなる。宗介はポニョを得るために様々な試練をくぐるが、青豆がそれをやったというわけだ。
  • [書評] 1Q84 book3 (村上春樹) : 極東ブログでの評について。BOOK1,2はポストモダン文学=ゴミだが、3では妊娠を契機として倫理的な作品となった、と。間違いとは思わない。妥当な解釈だ。すでに書いたが、ユング的神(四位一体)≒リトル・ピープルとの対峙こそが、長年春樹氏が取り組んできたものだ。少なくとも『ねじまき鳥クロニクル』以降は。だが、本作はむしろ、『羊をめぐる冒険』のような初期作品からの展開と読んだ方が、作者にとっても親切な解釈と思われる。『羊』は、「鼠」を爆死させることによって個人を確立させた。そこから、いかに他者と結びつくか作者は考えていった。同時に、善や悪を超えた存在に近づくこととなった。本作は、他者とのコミュニケートに対するひとつの解なのだろう。
  • 一方、リトル・ピープルとの対峙については、蓋をされた。彼らの声を聞くことにより、現代人は救済される。そう考えたのが「さきがけ」だ。近代以前への志向。青豆はリトル・ピープルの声を受け取るリーダーを暗殺した。リトル・ピープルの声は届かない。かくして現代人は、救済されえない。『ダンス・ダンス・ダンス』では、以下のような比喩が登場した。「『スター・ウォーズ』の秘密基地みたいなあの馬鹿げたハイテク・ホテル」――ソフィスティケートされた、大量消費的高度資本主義的世界の皮肉だが、青豆と天吾は、まさしくそのようなホテルで繋がるのだ。ひとつの月がよくみえるジュニア・スイートルーム。
  • 春樹氏はいう。現代人は救済されない。『1Q84』はしかし、絶望の書ではない。
  • 卵をいくら守っても、壁は立ちふさがり、重くのしかかる。仕舞には卵を押しつぶしてしまうだろう。これは、finalventさんがいう国家の比喩ばかりではない。春樹氏がかのスピーチで語ったのは、リトル・ピープルの一部分にすぎない。では、魂の救済はないのか。王国は、外面的なシステムではない、個人の内面から生まれる。王国は、リーダーが作った強固なシステムではなく、青豆の神によってつくられる。そこにしか、希望はないのだと作者は言った。きわめて真っ当な芸術家と考えるべきだろう。