生活について

幸福な時間というのがある。たとえば夜、好きな本をゆっくり読んで、うとうとしながら寝入ること。あるいは、素晴らしいコーヒー(マンデリンならなおよい)を飲みながら、軽やかで落ち着いた音楽を聴くこと。まだまだあるが、私はこれらがあれば充実した贅沢な時間を過ごすことができる。
一方で、仕事に追われている時間も当然ある。仕事が楽しいこともあるし、その逆もある。仕事が楽しければよいというのもわかるが、それだけでは頭が凝り固まってしまって、仕舞には憂鬱な気分になってしまう。私はつねに「仕事の部屋」の扉をあけ、「暖かく居心地のよい部屋」へ移動できるようにしておきたい。新鮮な気持ちでいられるようにするためには、必要なことなのだ。
合理的な仕事は大切だし、そのための生活もある程度は行わなければならない。われわれは、多かれ少なかれ仕事と関わりながら生きるしかない。が、同じようにして、仕事以外の愉しみもなければならない。その愉しみこそが、実は人間の本質ではないかと思っている。
小説が、人間の生活と関わることがあるとすれば、この地点においてのみだ。横軸としての現在の生活を保障するものが仕事だとすれば、縦軸としての生活、人生を考えるものが小説である。もちろん、人生とは一般にいわれているようなものだけを指すのではない。美しい景色や印象的な人の声、会話、そういったものが人生を織りなす。
生活の改善をめざすとき、いったい何のために行うのだろうか。たんに仕事のためならば、偏っていると考えるべきだ。偏りは無理な姿勢を生み、病気を招く。身体や精神のみならず、生き方としての病気も油断ならない。私は、改善のつもりがますます事態を悪化させているといったとき、何が大切なのかをもう一度考えることにしている。多くの場合、本質的ではない、きわめて些細で誤った事柄に拘っている。もしかすると、それは仕事の一部なのかもしれない。