『1Q84』雑感

1Q84 BOOK 1

  • 話題になっているものからはできるだけ遠ざかる習慣は昔からだし、今だって同じだけれど、こと『1Q84』に関しては微妙な時期に読んだと思う。
  • ストーリー解説に神経は使いたくない。ただ面倒。また、これから述べることに対しての「説明の説明」のようなものも面倒。とりとめはないし、自分でもまとめきれていない。だから勝手に読めばいい。
  • だれかが言っていたように、村上春樹宮崎駿化という問題。材料は過去の自作品からの引用と再構築であり、論理性を欠いたように見せながら様々な思惑を入念に張り巡らせ、謎はイデアルに解決され、広げた風呂敷は畳みきれない。そのうち春樹氏は、素朴な、作中に登場する「空気さなぎ」のような作品を書くのかもしれない。宮崎監督の「崖の上のポニョ」のように。
  • 春樹氏は「完成」に近づいている。『海辺のカフカ』のころからだろう。『ねじまき鳥クロニクル』風に言えば、井戸(イド)は掘り終わった。
  • 境界の問題。『ダンス・ダンス・ダンス』でのエレベータの扉にあらわれた「完璧な暗闇」。以降春樹氏は、このような暗闇の中に入り込んでいった。物語的には、暗闇の「あちら側」との境界について書かざるを得なかった。『ねじまき鳥』は、「あちら側」での闘いが記された。ところが、『カフカ』になるとその境界は消滅する。今作に至っては、パラレル・ワールドという言葉さえ、明確に否定される。

    男は肩を小さく震わせて笑った。「君はどうやらサイエンス・フィクションを読みすぎているようだ。いや、違う。ここはパラレル・ワールドなんかじゃない。あちらに1984年があって、こちらに枝分かれした1Q84年があり、それらが並列的に進行しているというようなことじゃないんだ。1984年はもうどこにも存在しない。君にとっても、私にとっても、今となっては時間といえばこの1Q84年のほかには存在しない」

    しかし、私には、『カフカ』で消滅した境界が、ひっそりと復活を遂げていると思われる。青豆は、1984年から1Q84年に変わった場所を確実に意識していたし、意識できるための人物設定がなされている。とはいえ、現実と非現実の出来事が、ひとつの世界(1Q84)で行われ、境界が損なわれていることに変りはない。
  • 近親相姦についてその1。『カフカ』では近親相姦が主たるテーマだった。もう少しさかのぼると、そもそも家族というテーマが(前面に)出てきたのが『ねじまき鳥』だ。そのころから春樹氏は、家族について書いてきた。しかし『カフカ』においては、家族関係の根本を混ぜっ返すようなかたちで、近親相姦が導入された。なぜ近親相姦が必要だったのか。「まったくの君自身として生きていく」ためだ。父を殺し、母を、姉を犯すことによって、少年カフカは自由を得、救われたのだ。ソポクレスが描いたオイディプス王は、冥府で父と母をどんな顔をして見ればよいのかと、自ら盲となった。その意味で、少年カフカオイディプスと対極に位置する。また、オイディプス王の物語をなぞらえて、エディプス・コンプレックスの概念を打ち立てたフロイトに従えば、彼は超自我から逃れ自由を得たともいえる。『ねじまき鳥』で深く掘り下げていった井戸はまさしくイド(エス)であり、イドこそが春樹氏が格闘してきたものだった。
  • 近親相姦についてその2。「空気さなぎ」の作者である「ふかえり」は父と「多義的に交わる」。「ふかえり」はパシヴァ(知覚するもの)であり、彼女の父はレシヴァ(受け入れるもの)だ。彼女の父がリトル・ピープルの「代理人」としてのレシヴァになるためには、彼女のドウタ(分身)と交わることが必要だった。また、もう一人のレシヴァである天吾は、マザ(実体)の「ふかえり」と交わる。しかし、彼女が言うには、天吾は、「空気さなぎ」のゴーストライターをする前からレシヴァの役を果たしていた。「ふかえり」の父は青豆にこのように述べている。

    「リトル・ピープルと呼ばれるものが善であるのか悪であるのか、それはわからない。それはある意味では我々の理解や定義を超えたものだ。我々は大昔から彼らと共に生きてきた。まだ善悪なんてものがろくに存在しなかった頃から。人々の意識がまだ未明のものであったころから。しかし大事なのは、彼らが善であれ悪であれ、光であれ影であれ、その力がふるわれようとする時、そこには必ず補償作用が生まれるということだ。この場合、わたしがリトル・ピープルなるものの代理人になるのとほとんど同時に、わたしの娘が反リトル・ピープル作用の代理人のような存在になった。そのようにして均衡が維持された」

    天吾のレシヴァの役は、反リトル・ピープルの作用としてのものであり、そこには「ふかえり」との「交わり」は必要としない。彼女が天吾と交わったのは、「猫の町」から帰還した際の「オハライ」のためだ。伏線を解釈すればこうなる。天吾はNHKの集金人をして自分を育てた「父親」が、実際の父ではないとする記憶をもっているし、認知症になって療養所で過ごす「父親」もそのことを認めている(ようだ)。「ふかえり」は言う。「わたしたちはふたりでひとつだから」。ここでほのかに、「ふかえり」と天吾が兄妹であることが示唆されているようにも思える。いや、そのような謎解きはつまらない。ひとつしかない月がふたつになっても*11984年が1Q84年になっても、淡々と物事は進む。並列世界を想定した仮説は意味をなさない。実際に彼女たちが「兄妹」的に存在していると理解すること。つまりこういうことになる。オイディプス王物語でのラーイオス(オイディプスの父)は「ふかえり」の父であり、オイディプス王は天吾/「ふかえり」である。そして青豆は、天吾の中に『ミクロの決死圏』的に存在し、「ふかえり」の父を抹殺する……。今作での近親相姦は、リトル・ピープルとの関わりのなかにおいて意味をもつものだ。名付けようのない、善悪の定義から離れた巨大な知恵と力をもつもの(リトル・ピープル)を導き、あるいは対抗するためのもの。
  • ここで、ジョージ・オーウェルの『1984年』を持ち出し、「ビッグ・ブラザー」と「リトル・ピープル」の対比を考察すべきなのは承知している。だが、それはまた別にできればと思う。ここまできて、やっぱり面倒になった。
BOOK3が発売されてから気付いたのだが、上記のふかえり妹説はありえないわけではないが、年齢的にいって無理な話だと思った。きっと私が間違っていたと思うので、削除した。

*1:この比喩/事実も兄妹の比喩ともとれる。あるいは天吾/青豆。