道徳の問題

大体、ある理屈が目の前にあるとして、それが正しいのかどうかさえ、簡単に判断することはできない。正しいか正しくないかが簡単にわかるのなら、議論も、証明も、裁判も、デバッグも必要ないよ。それに「解かりやすい真実」の大抵がフェイクであることを、我々は経験的に知っているはずだ。
(中略)
何かを理解するには最終的に相応の対価を払わされるわけで、理解する価値のないことについては「理解しない(接しない)」という選択肢は処世術的な意味で有効だと思う(「理解したいがどうしても理解できないこと」については覚悟を決めて細く長く付き合ってゆくのがよいだろう。もし今すぐ必要なことが解らないのなら、解るまでやるしかない)。
そういうわけで、重要なのは何が「価値のあること」なのかということだ。私が喋るとよく「あたしわかんなーい」なんて言われるが、それは価値観が違うからなのだ。私が少なくとも人に話せるほどに理解できるだけ重視していることが、その人にとっては理解するに値しない程度の価値しかない。それでいいじゃないか。どうせ私も「あたしわかんなーい」なんて言って、詳細な説明や根拠を求めず、簡単に理解を放棄するような言葉・態度・人物を理解したいとは思わないのだから。
無理してコミュニケーションする必要なんてないのよ。そして、無理に理解する必要もない。自分にとって(自分の「仕事」にとって)、本当に必要なことだけ知っていればそれでいい。その他のことはおまけに過ぎない。

わかるような、わからないような。と、いうか。数学における公理系の一連の歴史を振り返っても、あるいは現代思想を引っ張ってきてもいいのだけれど、それらが到達したひとつの結論というのは、「ある理屈が目の前にあるとして、それが正しいのかどうかさえ、簡単に判断することはできない」ということであって、それ自体に対する反論は私は考えられない。しかし、そこから、「ではどうするのか」という生き方の問題は別になるとおもう。
つまり、「わからない=他者の価値観を理解しなくてよい」という等式は成り立たないということ。そしてこれは、道徳的美学的問題であること。私の道徳では「わからない=わかろうとする」という等式は成り立つ。そして、リンク先のリンク先のはなしにもどるのだけれど、けっきょく、この道徳や倫理のはなしであるということ。
自分の信ずるものがたとえ矛盾していようと、信ずるにたるものであれば真実たりえるし、裏返せばわらわれはそうして生きているはずであって、ユークリッド幾何学的な無矛盾の公理をもって生きているという人間などいない。そうだとするならば、あとは道徳しか残されていないということになる。さらにいえば、「理解する価値のないことについては『理解しない(接しない)』という選択肢は処世術的な意味で有効」であったとしても、それを表明するか否かでまたちがうものになるだろう。話し手の独りよがりで好き勝手にはなすことも処世ではないし、かといって、聞き手が「わからない」というのも処世ではない。むろん、そうと分かっていないながら、ストレスなく過ごすためにあえて「理解しない」という術が処世だというのなら、その話は成り立つのだけれど。