アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生

アニー・リーボヴィッツ レンズの向こ

  • 映画『アニー・リーボヴィッツ レンズの向こうの人生』において問題となったのは、写真が瞬間を切り取るものであるとするならば、映画はなにを映すものなのかということだとおもう。
  • アニー・リーボヴィッツが、スーザン・ソンタグの最期を撮った写真。彼女はソンタグの死の瞬間を「記録」しようとした。出来た写真は妙に「緑」がかっていた。では、映画はアニーを「記録」したのだろうか?
  • アニーを知る人びとのインタビューと彼女の作品、そして彼女自身へのインタビューと仕事風景。それらをつなぐ音楽。ルポルタージュとしての出来は、完璧とは言えないまでも、ベターではあったはずだ。それにもかかわらず、私はこの映画に力を認めない。なぜなら、この映画は「緑」がかっていないからだ。
  • アニーがとらえた「緑」こそが、私は映像の力だと思う。といえば、芸術や作品に対して、無意識の作用を期待し、そこに価値を見いだすありきたりな価値観にしかならないが、そうではなく、むしろアニーはソンタグの最期に「緑」を必要としたのだ。そして、それこそが、彼女の作品が力を持つゆえんだとおもう。
  • 映画にしても写真にしても、ただ瞬間をきりとるのではない。むしろ、瞬間をとらえようとしてズレること。および、ズレつづけること。あるいは、ズレざるをえないこと。たとえば、ソンタグの死を撮ろうとして、緑がかること。それらはどれも、おなじことだと私は考えている。