断片

  • 労働とは、持続と忍耐と創造である、という言葉が夢のなかで浮かんだ。実際そうだとおもった。
  • 職というのは面白い。「なぜ職につくのか」「そもそも職とはなにか」という問いは、社会学によっても哲学によっても応えられる気がする。けれども、大体にしてどうでもいいことだ。たとえば、今自分が担当している患者様に良くなってもらおうとおもう気持ちは、社会学的哲学的に語られた言葉を補完するものでも、ましてや証明するものでもない、ただの気持ちである。営業で回る会社それぞれに、いい人もいれば嫌な人もいて、いい人には気軽に足を運べるけれど、嫌な人ににはプロ意識をもって対応しようとするのは、気持ちが動いてなければできないことだ。僕もある理由でよく分かるのだけれど、いわゆるニートとか引きこもりとかと言われる人びとの困難さとは、この気持ちが動かないことなのだとおもう。
  • 自分が実際に体験したことしか分からないし、信じることはできない、という言い草を認めないところから私は出発した。幼い日の私はいつも不満に思っていた。そこらの大人よりも、これから起こること、それによってもたらされる感情、厳しさ、そういうものはすべて了解していた。だから、経験を盾にするいわゆる大人は認めなかった。それは弱い大人のすることだ。今でもそうおもう。しかし、実際に成長するにつれ、「分かっていた」ことの多くは、確かに「分かっていた」が、その深さの次元で「分かっていなかった」のだと認めなければならなくなった。昔の自分を否定するつもりはない。正しかったとおもう。ただ、分かりきれなかっただけだ。むろんそれは敗北だと私はおもうのだが。
  • ところで、経験や社会というのを好んで口にする人びとは、弱いというよりも、何も考えていないだけだろう。自分が一歩社会からでたら、そこで培われた経験も役に立たない。しかし同時に、そうやって弱かったり何も考えていなかったりすることによって、多かれ少なかれ私たちは生きているのだとおもう。程度の問題だというのは易い。が、その程度を決めることこそが、もっとも重要で、注力すべきところなのだと考える。
  • 実際、意識しているかどうかは別として、経験というものを切り離して考えることはできない。それはあらゆる学問的見地からも明白だろう。ひとつ例をあげるならば、(あらゆる)心理学における、「認知」について紐解けばいい。