断片

  • 知識を得てそれを武器にするということ自体に、私はなんの疑問も持っていない。ただ難しいのは、その使い方だとおもう。たとえば、これみよがしに知識を振りかざしても、それが受け手にとって不愉快であれば、「不愉快であることによってなしうる目的」は達成されても、「相手に納得してもらう目的」は達成しづらい。こういうことはみんな分かっているから、知識をもっていても、控えめに、あるいはなにも知らないふりをする。いちばんの失敗は、知識なんか持っていないふりをして、しかしそれがにじみでてしまうしまうような、そういうやり方だとおもう。やり方、というか、どうしてもそうなってしまう人というのがいる。私のことである。むろん人様に誇れるような知識をもっているというプライドがあるわけではなくて、ただ自らのバックボーンをとりあえずゼロにすることからはじめようとする結果だったりもするのだが、人によっては鼻持ちならないさまにみえる。
  • 理屈が己の血肉となることは、あまり喜ばしいことではない。いや、血肉という言い方は違うな。理屈は鎧であって、決して血はかよわない。この鎧は、自分を守ることはできるが、ときどき行動に制限をくわえる。いっぽう、常識というのは、己の肉体で、脆い。が、そのぶん行動に制限はない。理屈というのは、ほんらい常識的に行動すれば正しいはずのことが、行動の制限によって、誤ることがある。だから私は常識を信じるのだが、これもまた、理屈だ。理屈を否定する理屈をくっつけても、堂々巡りするしかないという例である。
  • 世俗的な解釈にもとづくので、あまり本気で読んでもらいたくはないのだが、私が小林秀雄について考えるときに念頭にあるのは、やはり常識ということだ。彼の文章が、しばしば論理に飛躍があるといわれるのは誤解であって、そこにはたしかに論理がある。ただ、彼はあえて書かないことで、読者に考えることを強いているだけだ。理屈といい論理といい、どちらも数学的な計算にちがいない。彼はそういうのが得意だったが、反面、彼の骨董をみればわかるように、頭でわかるものには興味を示さなかった。いや、骨董とは頭でわかるものではなく、まず「感じ」から入り、「見る」ものだというのが、小林のみならず、小林とおおくの時間すごした青山二郎たちの持論であったのだ。後年、彼は、何を見ても骨董に見えたと書いている。これは、彼の頭(理屈)が要請したのではない。ただ、そのように「見えた」のだ。そして、彼はそれしか信じなかった。彼の「見る」ことと常識とのあいだには、むろん、様々な言葉がついているが、大したちがいはないというのが、私の小林秀雄の読み方である。彼にとって物事は実にシンプルだったにちがいない。ただ、シンプルなものがシンプルに語れるとは限らず、むしろシンプルであるからこそ我々は、たとえば絵画を前にして言葉をなくし、シンプルに語ることができなかったのではないか。「美」という言葉に対して、執拗なまでに問い返していた彼を思い浮かべれば、それもうなずけることだとおもう。
  • 今日のうちの一連の話とは変って。某ブログがスパム扱いされていて、そこの作者さんが困惑した、という流れ。一部回答に、はてブでやれってあるけれど。「引用の慣習」を満たない転載が問題なのか、自動トラックバックシステムをオフにしないままリンクしたのが問題なのか。後者は、オフにすればそれで解決。だけれど、もし前者を問題にしているのなら、はてブに移行しても同じことなんじゃないですか? はてブのコメントに引用のみしている人がいるけれど、それは転載に入らないのでしょうか? とりあえず前者の理由ではてブに移行しても、なんら問題の解決にはならないと思うんですが。
  • これもまた関係のない話。小学生のころ、カセットテープにビートルズを録音して、四六時中聞いていたときがあった。今、ほとんど聞かなくなったが、COMME ÇA DU MODEの前をとおるたびにビートルズが流れるのを聞くと、なんだかんだいってもビートルズは偉大なんだと再確認する。音楽の歴史の問題だけでなくなく、それこそモード(MODE)の問題としても。