有徳の人

有能な人はたくさんいる。無能な人もいる。それらが相対的な基準の上での有能無能であることはいうまでもない。しかし、有用な人となると、むろんやはり相対的ではあるが、価値のばらつきは最小限ですみそうだ。有用であるということは、他人にとって都合が良いということだ。そういう人が仕事ができるといわれる。これも、結構いるだろう。
ところで、有徳の人はさほどいない。これはどういうことだろうか。
徳の価値が四散しているからか? 否定はしないが説得はされない。なぜなら、徳とはやはり、相対的な価値基準ではかるものではないからだ。宗教と紙一重、いやむしろ、日本人の多くが信仰している宗教は、「徳」の教義である。だからこそ、宗教を嫌う現代、徳は非日常のものとして省かれる。徳よりも平穏無事な人間関係「術」が尊ばれる。
現代、有徳であろうとすれば、その人は、宗教家か狂人になるしかない。かくして世はあらゆる生に対する判断が保留され、隠蔽され、対立を避け、「平和」が訪れる。むろんその「平和」は、あくまで、保留され続ける限りにおいて有効であり、有徳の人にとっては混乱の社会である。