ありきたりな立場についての戦略上の問題について

たとえば、Aという立場そのものは賛同も否定もしないけれど、Aの周辺は否定したいとする。すると、Aそのものへの判断は保留しながら、Aの周辺を各個撃破していく形になる。一見誠実な議論だし、文句はない。けれど、ではAに対してどのようなスタンスをとるか、という点についてはいつまでも保留し続けることになる。ここで問題になってくるのは、批判者たる自分の、批判の芯をも保留してしまっているということだ。つまり、Aについてのなにがしかの判断がなければ、それは相対的な議論に成り下がってしまう。畢竟、それを見ている人からは「ひとつひとつの議論については賛同できるが、全体としていまいち分からない」と思われる。
では、Aについての判断を下すとする。あらゆる前提を積み重ねて、その上でAについては認める、しかし、Aの周辺は、それらの前提がなってないからダメだ、とやるわけだ。これをやると危険なのは、戦線の拡大が止まらず、泥仕合になること。なぜなら、前提についての議論をはじめると、またその前提についての議論がはじまり、と続いていき、最終的には価値判断というソフトな相対主義に行き着くからだ。