「メディアリテラシー」という人々

僕はメディアというものを基本的に信用していないから、まずテレビをみない。それからネットで見たニュースも、「報じられている」という事実の確認しかしない。だから、報道されている内容が真実かどうかということを重用視するいわゆる「メディアリテラシー派」とは違って、そもそも報道とか情報というものに価値をおいていない。そこには信じるに足る価値なんてないと思っているからだ。僕が信じられる価値というのは、家族や身の回りの友達といった人たちで、せいぜいこの辺までしか信じられない。もちろん、この信じるとか信じないといった言葉は、西欧的な意味ではなく、日本的な意味でだ。キリストを信じなければ地獄に行く、というような苛烈な信心の話ではなく、葬式でなんとなく仏教を選んでしまうような信心。
しかし、僕から見れば、みんなすごく浮き足立っている。まるで、田舎で、畑仕事を終えてお茶を飲んでいるときに、端で株価の値動きが聞こえてくるような感じ。「メディアを疑い、分析する能力を!!」と声高に叫んでいる人を横目に、そもそも生きていくというリアリティを、自分の育てた野菜に見ている。僕はそういう人の方を信じる。もちろん「定年を過ぎて都会生活を離れ、田舎暮らしを」という団塊の世代向けの広告を支持するつもりはないのだけれど。