倫理とは何か

倫理について考えるとき、色々な哲学者や思想家を召喚して、大上段に構えるのは、滑稽といえば滑稽だ。なぜなら、召喚された彼らほど、そういう姿勢を常に警戒し、あるいは否定した存在はないからだ。
現代思想の功罪はひとまずおいておくにしても、彼らが好んでもちいたテクストは、イデオロギーから離れ、言葉によって言葉から逃れようとする運動をもつという点において共通していて、それが「文学」だったことは確認しておくべきだろう。
私が今学んでいる、医療の倫理は、その点、きわめて鈍感に思える。
むろん、基礎的な前提や教養をなくして思考だけを取るのは愚かだが、たとえばインフォームド・コンセント(IC)は必要であり、パターナリズムアナクロニズムとして切り捨てるのは、それこそイデオロギーに他ならないということに気づかないのは致命的だ。仮にも「倫理」と名のついた学問が、倫理からはなはだしく遠ざかる。そういう事態は、こと医療関係には多すぎはしないか。
たとえば煙草に関してもそうだ。煙草が体に害を及ぼすであろうことは、想像できる。しかし、その想像と学問的な研究は異るはずだし、異ってしかるべきなのだが、マス・コミュニケーションによる喧伝によって、厚生労働省を筆頭とした病院関係は、あまりに簡単に屈服してきた。
医療ということを考えるうえで、実は、倫理と同時に商売ということも考えなければならない。事実、病院がもっとも恐れるのは人の噂なのだ。そのこと自体を責めるのはあまりに幼稚でナイーブに過ぎるし、また、それこそ非倫理的だというべきだろう。
つまり、こういうことではないか。医療従事者の倫理とは、こうした「倫理」と「商売」に関して慎重になるべきだということである、と。医療倫理と呼ばれるものが、しばしば非倫理的であるのは、その点についてあまりにも無頓着だったからだろう。
バイオエシックスや IC などだけを医療倫理と呼ぶならば、それはそれで構わないが、少なくとも私に考えさせるものはあまりない。むろん様々な問題が山積していることは承知しているが、いずれもどこかで聞いた話でしかないし、それでは世間的な通念から脱して自ら考えるという最も基礎的な学究的姿勢は望むべくもない。