精神の垂れ流し

私はわりと古典的な人間だと自己評価しているが、自分の評価なんてものも信じていないから、実際はどうかしらない。だから他人が勝手に判断してもらって構わないのだけれど、という前置きをしておきたい。
本来は、こんなところに文章を書いている私が言えることではない。ただ、それでもおもうのは、これ以上ウェブで精神を垂れ流すのはやめよう、ということ。
ウェブは、公に表現を行うことに関しては、たしかに革命的だったかもしれない。その意味もきっとあるのだろう。その一方で、無防備に自分の精神を垂れ流すようになった。これまでは心に留めておいたり、人にみせるための様々な手をかけたりしてきた。それを取り除いたとき、見えているのは、みっともない精神がそこかしこに散らばっている(ことが多い)状態。
2年前、あるところで言ったことで、周りの反応は良くなかったのだが、Twitterその意味であまりにも病的だとおもう。頭の中にあるものをほとんど濾過しないででてくる言葉に、むろん面白みはあるのだろう。ただ、自動書記的な無意識や、現実なら限られた関係性のなかでしかみえなかった態度や言葉遣いの癖など、そういうものが一斉に公開されている。物書きは精神の娼婦だという言い方がされることもあった。娼婦は肉体を晒すが、物書きは精神を晒す、さあどちらが恥ずかしい存在か、というわけだ。物書き自身から、なかば自嘲気味に平衡を保とうとして言われた言葉だ。この言い方を現状に当てはめるならば、気軽に売春する素人があまりにも増えているということになる。
むろん、こうした私の言い方が乱暴にすぎるというのは分かっているし、物事の一側面しか捉えていないことも承知している。だから、たとえばTwitterをするべきではないとは言わないし、おもってもいない。Twitterをつかって素晴らしい表現をしているなら別に構わないわけだから。ただし、使うにはそれなりのやり方があるはずだろうとおもっている。