成熟についての一側面

トンガっていた人もやがて落ち着く、というステレオタイプは、表現上忌避したいが現実たしかに多い。こんなことを言っている私もそうだろうと思う。落ち着くというのは、たとえば、それこそステレオタイプを気にしなくなる、あるいは現実との突き合わせで認めざるをえなくなる、など。これをもって成熟とひとことで収まる気もする。
年をとるごとに面の皮は厚くなるし、苦労だの楽しみだのといったものを皺と笑みで語る、というウェットな関係も「オヤジ」の醍醐味なのだろう。
20年以上前、このような「オヤジ」を「パラノ」と否定した人もいた。逃げ続け、常にズレ続けること。いわば「スキゾ」として生きよう。インテリを気取った当時の青年たちは、現在40歳代半ば、家庭も仕事も抱え込み、家のローンだの子どもの学費だの、いつのまにか「パラノ」の典型のように生きている、といった現実は、思想の敗北という前に、生き方として敗北したのだろう。しかし、成熟とは、敗北の言い換えでもある。
敗北を受け入れ、苦々しく付き合って行くこと。和解すること。
20年前の彼らなら、醜いと言っただろう。そうやって敗北を受け入れ、昔の自分は愚かでしたと言っていれば安心できる。果てはトンガった若者を見てはいずれ敗北する、分かる時が来るなんて言っている。冗談じゃない、と。
私は、成熟と未熟とを同時にもちたい。このアンビヴァレンツをもって生きること。ただし、この葛藤はいずれ沈黙となり、成熟とならざるをえない。沈黙もひとつの決断である限り、成熟からは逃れられないからだ。