書かない批評

書く批評はあらゆる表現の重荷を背負いながらも、読者なり作者なり、あるいは世間に対してアピール可能だが、いっぽう、書かない批評はアピールそのものの難しさをはらみながらも、その存在は確固としてありつづける。むしろ書かないことは書くことよりもずっと批評的なことがしばしばある。
書くことでしか表現できないうちは二流だと思う。それは、書くということに盲目の信頼を置いているからで、その自覚のなさは致命的だからだ。
たとえば『崖の上のポニョ』の批評をいくつかみたが、はっきりいってどれも『ポニョ』を批評できていない。それは、批評家の文章から大きく超えたところに『ポニョ』があることを、逆に浮かび上がらせていることでもあるのだが(その意味で優れた批評文だというのは安易な皮肉だろうか)。
『ポニョ』を批評しようとするとき、作家(宮崎駿監督)と批評家は、対等な目線で格闘していなければならない。作品と作品の格闘でなければならない。そうでなければ、近代以降獲得してきた批評の独立性と芸術性を、批評家は自ら貶めることになる。
その意味で、現代、近代に築いた批評の形式が徹底的に破壊されたと言って良いと思う。ウェブにおけるブログ、レビューというのは、作品に対する副産物でしかなくなった。近代以前の批評の形式である。ウェブで人間は進歩したと主張する人びとは、これになんと応えるだろうか。
いや、応えはすべて分かりきっている。そして、そのどれもが私の興味を引き立てるものではないことも。ただ、沈黙し作品を大事にしたり、怒ったりしている人の方を、私は信じる。