意識化されない格差と宿命

格差の固定化って、だからたぶん、努力するための資本がないとかいうことだけじゃなくて、
努力すれば格差を縮めたり、乗り越えたりできるかも、なんて本気で考えることができないような、
そういう環境の中で育つ、ってことでもあるんじゃないかなぁ、と。
貧乏でも実際なんとか大学には行けるけど、能力があろうがなかろうが大学進学なんてまるで想像の埒外
という貧乏人の子だって結構いるんだよ。

そうだろう、と素直に思う。
格差は昔からあった、という常套句は、しばしば格差の肯定にはつながらないと批判されがちだが、増田が言うような形としてあったんだろうということは、認めてよいと思う。そして、これを認めつつ、格差社会が許されないと言うのであれば、昔の日本のありかたも批判するのが筋というものだろう。
僕は、格差社会というものをなくせだとか、いやどうしても存在するものだといった議論に、興味が無い。それよりも、格差があろうとなかろうと、その中で生活するリアリティの方にこそ興味がある。
増田が図らずも述べているように、可能性というものは、案外、見えないものだ。見えているように思っても、それは鍵括弧をつけなくてはならない。いわば、「可能性」のなかでしか、選択を許されていない。
小林秀雄は、『様々なる意匠』において次のように述べた。

人は様々な可能性を抱いてこの世に生れて来る。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、しかし彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚くべき事実である。この事実を換言すれば、人は種々な真実を発見する事は出来るが、発見した真実をすべて所有する事は出来ない、或る人の大脳皮質には種々の真実が観念として棲息するであろうが、彼の全身を血球と共に循る真実は唯一つあるのみだとういう事である。雲が雨を作り雨が雲を作るように、環境は人を作り人は環境を作る、かく言わば弁証法的に統一された事実に、世のいわゆる宿命の真の意味があるとすれば、血球と共に循る一真実とはその人の宿命の異名である。

可能性というものがあるのに、「彼は彼以外のものにはなれなかった」とはどういうことか。小林は「宿命」と言った。「宿命」である限り、逃れることは出来ない。彼は彼でしか生きられない。だが、彼は彼を生きることが出来る。これは単なる言いかえではない。それがリアリティだと、僕は思うのである。