断片

  • 駄目なときはなにをやっても駄目なもので、過去のものを掘り出してみても溜め息しか出ない。なんだかんだ言ってまたもとに戻ってきたという感じがする。進歩なんて幻想だと思う。いや、それもどうかは分からない。結局なにも分からない。
  • 分かることは有り難いし、便利だ。けれどもそれだけのことだ。分からないことがたくさんあって、それで平然としている人間は強い。そういう人は、分からないことを分かるほど分かろうとしたのだ。それに耐えているのは強い。
  • 結論めいたものはいくらでも出せるが、それが無意味なものであることを過去の自分の文章が示していると思う。断言は必ずしも強さを意味しない。と、こういう断言もまた、文体の業だろう。文体通りにしかなかなか生きられないものだ。
  • 自分の都合のいいように他人は出来てはいない。それは分かりきった話なのに、しばしば、自分の都合(それが正しいか間違いかはとりあえず措いて)に基づいて他人と接する。漱石は言った。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい」。
  • 上手くやっている人というのがいる。僕にはそれが出来ない。上手くやろうとすればするほど、そうしようとする自分がみえて、みえればみえるほど、動きはギクシャクしてしまう。だから、僕のように何をやってもギクシャクしている人間の方を、僕は信じる。それだけ、ある意味生真面目なのだと、自分を鑑みて思うからだ。
  • 調子の波が規則的ではなく、ランダムであるというのは、自然ではないか。世の中にたくさんある、「〜術」のたぐいは、その波を把握せよという。しかしランダムである以上、把握は難しい。ランダムなものを制御しようとすれば、ジンクスめいたものになる。左足から外にでるとか、そういう風にしか調子は制御できない。しかし、そういうものかもしれない。
  • なんとかの思想とか、考え方というのは、分かる前に実行していなければ意味がない。たいてい、「分かっている」というのは嘘で、本当に分かるとは生活や行動にでて初めて成る。
  • 成功とは何か。金をもち、周りから厚遇され、偉くなり、誰にも媚びへつらうことなく物が言えるようになることか。そうなった途端、成功は崩れていく物と、僕には見える。ならば成功とは何か。人に感謝され、善意に溢れ、奉仕に喜びを見いだすことか。ある人は言う。奉仕を目標とし、金や権力は結果である、と。この言葉を本当に実行して、成功と思えたとして、それは自己満足を超えるか。ならば成功を目標としなければ良い、とりあえず生きてさえいれば良いという人もいる。だが、そうして人は、生きられるか。
  • ごまかされまいと構えて、自分はいかに人をごまかすかを考える。そういうのは都合が良すぎると言うのは簡単だ。しかし、どれだけの人が、ごまかさずに生きているというのか。自分をごまかしつづけて生きているのがほとんどではないか。ごまかすことは、ある種の人にとって、とても生きやすい。だが、ごまかさずに生きるのも、また、とてもつらいものだ。
  • ろくでなしというのが、この世にはいる。何をやっても続かず、ホームレスに金をたかるような人種だ。そういう人間を、唾棄すべきものだと、今の人々は言う。だが僕はそう思わない。何となれば、僕もろくでなしの一種になることは分かるからだ。
  • 調子がいい時は、自分がいかにあやうい存在であるかを忘れがちである。明るいところ生き、暗いところを見落とせば、夕暮れ時にふと落とし穴に落ちるだろう。そういうことはしばしばあるのに、明るさは、落とし穴の存在は照らしても、闇や深さを閑却させる。
  • 身の丈にあった言葉しか話さないと決めたら、今度は身の丈が分からなくなった。よくある話である。
  • 弁解は、いくらやっても、他者を動かさない。その人にとってどうしようもないことは、他者にとってはどうでもいいことなのだ。言い訳といい、理由といい、そういうものはなべて自身にとってのみ有用なのだ。他者にとっては結果だけが問題である。また、これは、良くも悪くも社会の常識である。
  • 反省という。反省は自己を批判して、もう一方の自己を肯定することだ。こういう一人芝居は、得てしていい加減である。なぜなら、どちらが本当の自己なのか、分からないからだ。自己のない反省に、意味はあるか。
  • 自分を知るのに、もう一人の自分はいらない。