文学にかんする対話

エクリチュール(ècriture)という言葉を定義するのは難しいのです。たとえば、ジャック・デリダがいうところのそれと、ロラン・バルトのいうそれとは別物だったりします。多少の解説をすれば*1、一般には、エクリチュールは、書く(エクリール, ècrire)という動詞に対する名詞で、書かれたもの(文字)、書法、書く行為を意味します。フェルディナン・ド・ソシュールにおいては(『一般言語学講義』)、ラング(langue, 言語体系)を表記する記号体系として扱われています。デリダは、西欧のパロール*2中心主義に対するアンチテーゼ(脱構築?)としてエクリチュールを持ってきたのでした。一方バルトは、ラングと文体のあいだにあるものとしてエクリチュールを考えました。ラングや文体*3が、自然的に要請された所産であるのに対し、エクリチュールは著述家の選択的な行動であり、その行動は「歴史」や「社会」に対してアンガージュマンすることなのです。
……というか、こういうことを書いていってもあんまり意味ないよな、と思いました。書いちゃったからもったいなのでこのままにするけれど。
ちなみに、テクストの快楽という言葉も、バルトの著作からのものです。僕がむかし、某所で「不愉快なテクスト」という文章を書き、しかもプロフィールにはバルトの幼少期の写真を使ったのは、こういう意図があったからなのでした。以下のテオリアさんの質問も、基本的にバルトの「テクストの快楽」を参照していただくことで解決できるかと思います。むろん、読んでみて、何かいているのか分からん、となることは請け合いですが。

そのライトノベル」に過ぎない作品でも「文学」となるのでしょうか。それがなるとしたら「明らかにライトノベルにしか見えないけど(つまり富士見ファンタジアとか角川スニーカーで表紙が萌えキャラ)文学」というのも成立するんでしょうか。まあ、文学はテキーラやコニャックのように「どこで書かれてどこの出版社から出ていないと文学と呼ばない」みたいなのはないでしょうから、成立するのはするんでしょうけれど想像すると非常に奇妙に思えます。「明確に区別することは出来ないけれど確かに存在する」という状態なんですから。

まったくそのとおりだと思います。奇妙といえば奇妙なのですが、これは後の話にもつながるように、正確な分類や線引き、あるいは定義なるものは実質的には不可能なのです。純文学の条件を述べよ、といっても、原稿用紙の枚数や句読点の数を数えたって仕方がないように、決定的なものは存在しない。しかし、それでもなお純文学の作品は厳然と存在している(たとえば古井由吉さんの作品は、誰がなんといおうと純文学です)。だからこそ立場というものが必要になるのでしょう。自分が純文学と認めうる条件を、納得的に語ること。実は、それこそが批評的な営みの一部であったりします。

あと「近代的な意味での文学」と「現代的な意味での文学」では指している範囲(これが文学でこれが文学じゃないというような境界線)が違っているように思えるのですが……。

そうです。違います。むろん、重なる部分は多々あるんですよ。ただ、極端に対立的な図式として説明すればそうなるだろう、ということであって。たとえば、A日記のNさんは、圧倒的に近代的な(あるいは前近代的な)価値観で文学を語っています。それが悪いとは僕は思わないし、むしろ僕の立場もそれに近いものがあるけれど、現代的な意味での文学観からみれば、面白さを取りのがしているようにも見えてしまうものです。ですから、「テクストの快楽」を支持する現代的価値観の某作家さんとNさんとのやりとりでは、その齟齬が顕著に出てきます。

*1:もし僕に解説できる力量があるならば解説になっているはず、という意味で

*2:parole, 話し言葉ソシュールでは個人が特別な場面で使用する言語の側面。ラングが具体的な状況で実現したものと考えられる。

*3:過去の個人的「神話」から生じたもの。